一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

2017年04月25日

時事随感 難波紘二

医学資料館あるいは医学博物館の役割

この話を「雑誌ミクロスコピア」に書いたら、朝日新聞のOBである科学ジャーナリストに「150年前の標本から細胞の分化抗原を検出できるとは!」と驚かれたことがある。ホルマリン漬けの臓器やパラフィン・ブロックは病院における「もうひとつの文書館」なのである。

2017年04月21日

寒来暑往 八木亀太郎

7  印度青年キショール君 (一)

ボースさんに私が初めて会ったのは、彼が『お茶の水アパート』に居住していた頃で、私もまだ学生だった。

2017年04月13日

時事随感 難波紘二

腎移植の話題

マイノ教授の口からあるエピソードを聞いた。「コラゲン線維にも収縮能があると思っていたが、ハーバード大医学部の学生コスタン・ベラード(私の恩師)が私の実験室で行った研究では、ラットを使った手術が非常に上手だったので、収縮がまったく起こらなかった」という話だ。この実験でマイノ教授は「コラゲン線維の収縮説」を捨てたという。

2017年04月06日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅩ

退助と云い、象二郎と云い、綱と云い、もちろん茂も含め、やはりこの時期の土佐っぽは大物ぞろいだ。ひとり、宗城公を除いて、伊予は土佐の豪儀さにはかなわない。

2017年02月28日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁 (十)

これはある時、こうちゃんからも聞いた話だが、高間さん(こうちゃんはいつもそう呼んでいた)の学生時代、学資も生活費も岡田翁が悉皆(しっかい)面倒を見られ、物心両面で高間さんを援助されたのである。こうちゃんにとっても高間さんはいい兄貴分だったらしい。

2017年02月27日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅨ

五代才助は維新期宇和島藩のキーパーソンだった。慶応二年のパークス宇和島来航に一役買っただけでなく、維新の扇のかなめであった大久保利通の信頼を受けていた才助が、宗城公をミカド政府の中枢に入れる動きをしたと私は見ているからである。

2017年02月21日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁 (九)

翁は苦労人だった。若いころ、栃木から東京に出られ、夫婦で品川に、間口二間くらいの小店を出され、軒先に釘を打って、針金を幾束か吊るして売っておられたとのことで、赤貧洗うがごとき艱(かん)苦に満ちた生活だった

2017年02月17日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅧ

たしかに、手を下したのは堺守備を担当していた土佐藩士なのだが、なぜ、事件が起きてしまったのか。森鴎外の小説をはじめ、フランス水兵がいたずらをした、土佐藩の旗を盗んだ、と後付けの説明はいくつかあるのだが、無抵抗の十一名を、一方的に執拗に惨殺する根拠としては弱すぎる。

2017年02月16日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁 (八)

謝礼をいただくときにも、必ず半紙にお菓子を少し包み、それに月謝袋を添え、お盆にのせて女中が鄭重に差出した。翁自身が私に手渡されなかったのも翁の心遣いだった。

2017年02月13日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅦ

 話はもどって二月十五日、公使団との和親の宴がたけなわになった頃、恐るべき一報がもたらせられた。

 ー堺湊でフランス兵が一人土佐兵に殺されたー