一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

2017年01月31日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅤ

当然のことながら、公の手足となって働いたのは宇和島藩士だった。正確な数字は分からないが、慶応四年の上京には三百人の宇和島藩士が従ったと、初代日銀総裁となった松尾臣善(岡山出身の宇和島藩士)はのべている。 

2017年01月30日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁 (五)

『僕は最近、何だかんだとうるさいから、有楽町の蚕糸会館という新しいビルの一室を借り切って、書いてるんですよ。一日二円五十銭だが、落ちついていいですよ。どこにいるか誰も知らないから、人も来ないし』と言われていたのも、ほんの昨日のようだが、あれから四十年の歳月が流れている。

2017年01月27日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁 (四)

どちらかと云えば剽軽(ひょうきん)で茶目っ気の家永君とは好対照だったが、なかなかの人柄で、食堂での二人はよく揆(ばち)が合って楽しそうだった。西条八十の話にはさして興味もないらしく『さあねえ』と気のない返事がかえってきた。

2017年01月27日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁  (三)

『うん、そう言われればね』と生半可な返事をすると、すかさず、家永が、『うちの教育部の高間さんです』と紹介して、自分のジョッキを飲み乾した。高間さんと名刺を交換したとき、家永が注釈を加え、『高間芳雄というのは本名で、八木さんも少し知ってると思うんだけど、高見順というのがペンネームですよ。コロムビアは給料が安いから、小説でひと儲け‥‥』。

2017年01月20日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁 (二)

昭和の八、九年頃、私が東拓ビルのコロムビアへ出入りしたことは前述の通りである。満州事変の前後、コロムビアでは、その時代のアジア主義の擡頭に呼応して、外国語のレコード(当時はまだテープがなかった)の複製を企画し、当時まだ日本では入手し難かったリンガフォーンの英、独、仏版の解説付のコロムビア盤を出すことにし、蒙古語など、リンガフォーンにないものは、コロムビアが独自のオリジナルを作製することになった。

2017年01月05日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁

大学二年まで、私は管瀬芳英大和尚の創設になる小石川久堅町の真宗派の学寮に寄宿し、朝夕、正信偈(しょうしんげ)[5]を誦唱(すしょう)[6]した。当時の寮長は青原慶也先生でこの方は本願寺派の学校である千代田女専の教授をされていたが、もともとは広島のあるお寺の住職である。この青原先生に正信偈を習った。この経は『帰命無量寿如来』という言葉で始まるが、それは南無阿弥陀仏の漢訳である。