一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

2017年01月20日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁 (二)

昭和の八、九年頃、私が東拓ビルのコロムビアへ出入りしたことは前述の通りである。満州事変の前後、コロムビアでは、その時代のアジア主義の擡頭に呼応して、外国語のレコード(当時はまだテープがなかった)の複製を企画し、当時まだ日本では入手し難かったリンガフォーンの英、独、仏版の解説付のコロムビア盤を出すことにし、蒙古語など、リンガフォーンにないものは、コロムビアが独自のオリジナルを作製することになった。

2017年01月05日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁

大学二年まで、私は管瀬芳英大和尚の創設になる小石川久堅町の真宗派の学寮に寄宿し、朝夕、正信偈(しょうしんげ)[5]を誦唱(すしょう)[6]した。当時の寮長は青原慶也先生でこの方は本願寺派の学校である千代田女専の教授をされていたが、もともとは広島のあるお寺の住職である。この青原先生に正信偈を習った。この経は『帰命無量寿如来』という言葉で始まるが、それは南無阿弥陀仏の漢訳である。

2016年12月29日

時事随感 難波紘二

2016出版事情

私はKindleもiPADも持っているが、付箋が貼れ、書き込みができる紙本の利点が捨てがたく、電子ブックはほとんど利用していない。おかげで書庫は本だらけだ。丸善のHONTOだとパソコンに転送が利き、テキストの色つけ、アンダーライン、書き込みが自由だと聞いたが、ひょっとするとこちらにスィッチするかも知れない。

2016年12月27日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅣ

慶応四年正月まだ松の内の十一日、神戸は新しい居留地として建設ブームに沸いて、浮きうきとして気分に充ちていた。と突如、激しい銃撃の音がこだまして、槌音やざわめきが凍り付いてしまった。岡山藩兵と神戸在留の外国軍が戦闘状態に入ったのだ。

2016年12月26日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅢ 

ミカド政府は三つの困難に直面していた。空っぽの国庫、戊辰戦争、兵庫に蝟集して圧力をかける欧米列強の艦隊と手強い外交官たち。その外交団の筆頭が辣腕英公使ハリー・パークスだった。

2016年12月22日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅡ

その二 最後まで武力行使に反対した宗城公

 宗城公は慶喜を首班とする合議政体を望んでいたが、事態は正反対の方向に流れていく。

2016年12月22日

時事随感 難波紘二

Ⅲ. CMLとGIST

 慢性骨髄性白血病(CML)は白血球幹細胞の異常増殖によるもので、第9染色体にある遺伝子bcrが第22染色体にあるablの隣に転座して、bcr-ablという新遺伝子を構成し、これが新しいキメラタンパク質を合成するところに原因がある。

2016年12月20日

時事随感 難波紘二

Ⅱ.韓国の新聞

 よって韓国人は新聞を読んでいないと思う。では情報はどこから得ているのか?恐らくネットとSNS及びポータルサイトであろう。このシステムでは、情動に支配されて、理性が麻痺する恐れがある。韓国情勢の危うさは実にこの点にあると思えてならない。

2016年12月19日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅠ

 その一 宗城公ミカド政府の議定となる

慶応三年二月、西郷隆盛が薩摩国主島津久光の密書を携えて宇和島にきた。

2016年12月19日

時事随感 難波紘二

Ⅰ.独裁制と支持率

朴槿恵大統領の弾劾決議がやっと韓国国会で可決された。支持率5%程度で2ヶ月以上も権力の座に留まり続けた大統領も珍しい。