一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅩ

 日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどる 

  その十 堺事件 四

   土佐と伊予

 今でも高知県人と愛媛県人の気質には差があるようだ。よさこい鳴子踊りと野球拳の差であり、漫画甲子園と俳句甲子園のちがいでもある。

藩政時代には、その差はもっと大きかった。

山内容堂の苦労は伊達宗城のそれとは比較にならぬほど大きかった。土佐勤王党という暴れものに手を焼いたが、維新後には土佐藩士は宇和島藩士とちがって、新政府のおこぼれもチャッカリいただいたわけで、まあゼロサムゲームだったかも知れない。

土佐人の頑迷な攘夷気質が、堺事件の本質だったという『堺港攘夷始末』で大岡昇平が示した新解釈は、その種本が宗城公の『御日記 慶応三四月から明治元二月末』(創泉堂出版、伊達博物館でも販売中)なのだから、宗城公のお見立てともいえる。

例えば、宿毛藩である。

ガンボート・サーペント号は慶応二年七月二日に宇和島を発って、西南四国の海岸を測量しながら南下するのだが、宿毛湾に達した時にはすっかり夜に入っていた。

「おいよー、おおごとぜよ。異国船がきちょるがや」

安満地浦からの急檄が宿毛の藩庁に飛んだ。

「おじるな。あしが攘夷の先駆けを切っちゃる」

         竹内 綱

目付竹内綱は小銃二百丁を兵隊に持たせ、小船隊を率いて揚々と出かけたが、沖に出て驚いた。化け物の様な巨大な船体が、夜目にも黒々と視野を遮っている。それに、見たことも無い大きな船大砲がいくつも睨みをきかせている。

「こりゃ戦にはならんきに、おんしらはいんどけ」

と兵隊の小船は帰させて、単身サーペントのタラップを登っていった。

通訳がいない測量船では言葉が通じない。さいわい御粗末だが一冊の掌珍英和辞書があったので、互いにそれをめくりめくり会話をしたらしい。

宇和島訪問の帰りに測量をしていることが、なんとか綱にも理解された。

酒飲みの綱は珍しい西洋のお酒に感銘して、すっかり出来あがってしまったのだ。

兵隊の肩にすがってよろよろ帰ってきた綱を見て、宿毛藩主山内氏理は激怒した。切腹を覚悟で謹慎していた竹内綱に、二三日後に朗報が届いた。

須崎に寄ったサーペント号が、土佐本藩から懇ろな接待を受けたという報告がきたのだ。これで、あやうく綱の腹は無傷に済んだのであった。

明治十年、宿毛の林有造や東京の陸奥宗光らとともに西郷反乱に同調して決起した綱は、あえなく捕吏の手に落ちて入獄する。

出獄後、板垣退助の自由民権運動に挺身していた綱が保安条例で東京追放になって身を寄せたのが、横濱の貿易商吉田健三で、板垣退助派の有力シンパだった。

健三は元福井藩士で、慶応二年脱藩してロンドンに留学し、帰国後横濱のジャーディン・マセソン社の支配人をやり、貿易商として成功していた。

       吉田 茂

竹内綱は五男の茂を健三の養子に出したのだが、吉田茂の娘和子は北九州の炭鉱王麻生太賀吉に嫁いで、元総理麻生太郎をもうけている。

もともと幕末土佐藩の大物政治家後藤象二郎の知遇を受けていた綱は、一時象二郎の高島鉱山を預かって、その経営に手腕を振るっていた時期があった。その頃、北九州の炭鉱経営者と関係が出来たものであったろう。

退助と云い、象二郎と云い、綱と云い、もちろん茂も含め、やはりこの時期の土佐っぽは大物ぞろいだ。ひとり、宗城公を除いて、伊予は土佐の豪儀さにはかなわない。

ちなみにサーペント号は、今中国が強引に占領している西沙(パラセル)諸島を測量した測量船として知られている。