一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅨ

その九 堺事件 三

   五代才助の機転と艦長プティ=トアールの沈着な行動

話をもとへ戻す。

そもそも、外国船が沿岸の測量をするのは、安全な航海のためには必要不可欠だし、安政五カ国条約で了解済みのことだ、と外国側は考えていたであろう。フランスのコルベット鑑デュプレー号の水兵達は丸腰でカッターに乗って堺湾を測量していた。

その時、突如土佐兵の一隊が物陰から現れて、水兵達を狙い撃ちにし始めた。海中に逃れた者の頭には容赦なく鳶口が打ち下ろされた。大岡昇平は鳶の組が出ていたことを、土佐藩の堺守備隊がはなから計画的に市街戦を覚悟して攻撃した根拠と断じている。

こうして、最終的には十一人のフランス下士官・水兵が惨殺されたことが後で判明した。慶応四年二月十五日午後三時過ぎのことであった。

佛公使ロッシュ

佛公使ロッシュは怒り猛り狂った。夜に入ってすべての遺体を翌朝六時までに差しだすことを要求するロッシュの強硬な書翰が宗城公に届けられた経緯は前々回にも書いた。

この窮地を救ったのはその夜堺に出向いた外国事務掛の五代才助の機転だった。

堺に着くやいなや五代は、

ーフランス兵の遺体を届けた者には一体につき三拾両を与えるー

と布告させた。

効果覿面、今なら、一遺骸について二、三百万円の報酬である。その現ナマを台に乗せて人々に見せたと書いている本もある。高みの見物をしていた人々の目つきが変わった。不可能と思われたことが、なんとか夜が明け初めるまでに完了したのである。

その夜、激昂するデュプレー号の乗組員達は堺市街の報復砲撃を主張したが、艦長のプティ=トアールがなんとか制止した。艦長の自制がなかったら、土佐藩とフランスとの戦争が勃発したであろう。そうなれば、江戸制圧に重大な障害となり、ミカド政府は存亡の危機に立たされた可能性があった。

ロッシュ代理として処刑場に出席したデュプレー艦長は、隊長の箕浦猪之吉をはじめとして十一人目ー殺された仏水兵と同数ーの切腹を見届けた時点で切腹の中止を申し入れている。凄惨な土佐式の「十文字腹切り」に外国人は皆居たたまれなくなったのだ。

ベルガス・ドゥ・プティ=トアール海軍中佐は仏海軍名門家の出で、クリミア戦争で重傷を負ったが、その勲功でレジオン・ドゥ・ネール勲章を受けていた。

宗城公の御日記には彼が頻回に登場する。彼の沈着な行動で深刻な外交問題を回避できたのを多とするだけでなく、外交能力に期待していた節がある。堺事件以後はロッシュの代理として、彼は外交官のように行動している。またロッシュの明治天皇謁見に随従して、貴重な青年天皇の克明な描写を遺してくれた(堺事件 一)。

もう一人の五代才助である。

薩摩藩では「人面獣心」で、英夷の「生盗」になった卑怯者として命を狙われてきた才助は、堺事件の活躍で、同輩より遅れて二月二十日に外国事務局判事の辞令を受けた。ちなみに慶応元年正月の松根図書への書翰で才助は、「人面獣心の生盗」とユーモラスに自己紹介している。

五代才助は維新期宇和島藩のキーパーソンだった。慶応二年のパークス宇和島来航に一役買っただけでなく、維新の扇のかなめであった大久保利通の信頼を受けていた才助が、宗城公をミカド政府の中枢に入れる動きをしたと私は見ているからである(「なぜ、宗城公は新政府で活躍できたのか」「歴史のうわじま 第三十一号」)。