一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

7  印度青年キショール君 (一)

7 印度青年キショール君 

(一)

在京中、いく人かの印度人と親交を結びえたことも、私の青春遍歴の忘れ記念(がたみ)である。当時印度は英帝国の桎梏(しっこく)[1]の下に喘(あえ)いでいたが、独立運動の悲願成就を期して、これに対する日本の援助を求めるべく、多数の志士が東京に来ていた。

ラシュ・ビハリー・ボース氏(彼は後に、日本に帰化し、新宿の老舗中村屋の養子となる)、プラタム・シン氏などは若くして来日した憂国の壮士である。シンさんには昭和十七年、タイのドンムアン飛行場で最後に会った。私の一つ前便の、東京行きの海軍ダグラス機に搭乗したが、墜落事故で雄図[2]空しくこの世を辞した。

ドラビダ系のラーミヤ君は印度のUPの記者として昭和十四年頃来日、在京中、度々小生の巣鴨の寓居[3]に足を労び、大いに印度の政治や文化を論じた男である。世界連邦の夢を抱いて来朝したマヘンドラ・プラタップ翁は大川周明が『我等の同志』として支援した理想主義者だった。以上いずれも、私の若い頃に、私のアジアへの関心を高めた、忘れえぬ異邦の人達である。

ラシュ・ビハリー・ボース氏

ボースさんに私が初めて会ったのは、彼が『お茶の水アパート』に居住していた頃で、私もまだ学生だった。彼はケマルジーという独立運動の闘将と共に最も早くから来日していた人で、大川先生がまだ大学の印度哲学科に在籍していた頃、二、三の同志と相携えて東京に来た。日・英関係を顧慮[4]して、日本の官憲[5]はかかる反英分子を極度に警戒し、身柄を強制送還することもあった。そのような状況下だったので、大川青年は彼等を自分の下宿に匿(かくま)って、手厚く保護した。特高の監視下にあって、大川さんは知らぬ存ぜぬで通した。ある日、大川さんが下宿にはいろうとすると、中から、ドタン・バタンと異様な音が聞える。驚いて飛込んでみると、大柄なボースがほかの大兵[6]の印度人を相手に、畳の上で相撲をとっている。無聊(りょう)[7]に堪えかねてのことである。『コラッ、静かにしろと言っておいたのに分らんのか』と怒号したんだと、大川先生が昭和十五年に上野の精養軒で行われたある会合の席で述懐されたことがある。

 

[1]  足かせと手かせ。転じて、自由な行動を束縛するもの。

[2]  雄大な計画。壮図。

[3]  自分の住居を謙遜していう語。

[4]  深く考えて、気を配ること。考慮。配慮。

[5]  特に警察関係の役所あるいは役人。警察当局。

[6]  からだが大きいこと。またそのさまや、そのような人。

[7]  退屈なこと。気が晴れないこと。また、そのさま。