一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

寒来暑往 八木亀太郎

2017年10月19日

寒来暑往 八木亀太郎

9 南溟の友スジョノ君 (三)

ある日一枚の写真を持って、私の座席にやってきた。にこにこしながら、『見て下さい』という。キャビネに伸ばして台紙を付けている。見ると、三十人ばかりの若い人が映っている。『県人会の写真かな』とたずねたら、在京のジャバやマレーの人達のあるパーティーでの記念撮影だとのこと。顔だちがすっかり日本人らしいので、私はまさかと思って、びっくりした。

2017年09月19日

寒来暑往 八木亀太郎

9 南溟の友スジョノ君 (二)

昭和十三年、例によって森さんと話をしているところへ、一人の貴公子然とした紳士が現れた。年の頃三十四、五、顔の色はやや黄灰色だが、瓜実顔で眉目秀麗、かすかに香水の匂いがする。長さんが改まって二人を紹介してくれた。これがマレー語のスジョノ先生だったのである。

2017年09月07日

寒来暑往 八木亀太郎

9 南溟の友スジョノ君 (一)

昔の校舎は木造バラックで老朽もよいところだった。廊下などにも穴があいていたりして、注意して歩かないと足を突込むおそれがあったし、薄汚ない天井からは五燭か十燭の裸電球がぶら下がっていて、しかもそれが埃だらけときているのだから、どう見ても、天下に名だたる東京外語の建物というにはあまりにもお粗末だった。

2017年07月10日

寒来暑往 八木亀太郎

8 「鉢の木」に通った頃 (四)

『ああ、八木さん、今日はお世話になります。他に用があってこちらへ来てたもんですから、早過ぎました。一つどうです。前々からあなたとは一局お願いしたいと思っていたんですが、今日は幸にまだ時間がありますから、私のヘボ振りをご披露させてもらいましょうか』

2017年07月04日

寒来暑往 八木亀太郎

8 「鉢の木」に通った頃 (三)

高等師範の教授で石黒魯(どん)平(ぺい)という先生がいた。高師の寮監を兼ねておられて、学生からも慈父のごとく慕われた方だった。

2017年06月27日

寒来暑往 八木亀太郎

8 「鉢の木」に通った頃 (二)

当時、辰野教授は金田一先生の後を承けて、東都学生将棋連盟の二代目会長になり、初段を允許(いんきょ)された。

2017年06月23日

寒来暑往 八木亀太郎

8 「鉢の木」に通った頃 (一)

後に暖簾分けをしてもらって、近くに『豊田書店』を開いた。彼は終戦後、防空壕で水浸しになった古書を買い集めていたが、僕が戦災で本を全部焼いてしまったことを話したら、僕の専門分野に関する本に仮表紙をつけて、数冊送ってくれた。『昔のよしみで読んで頂けたらうれしいです』といって、どうしても代金を受取ってくれなかった。それから間もなく豊田君は亡くなったが、今もその本を見るたびに、同君の好意が身に沁みる。

2017年05月12日

寒来暑往 八木亀太郎

7 印度青年キショール君 (四)

数日後、大きいアメリカ煙草の箱が清水に届いた。差出人は勿論片仮名で書いた『キショール』だった。

2017年05月10日

寒来暑往 八木亀太郎

7 印度青年キショール君 (三)

昭和の初期以来、小石川の『大学書林』という出版屋から、『英語四週間』とか『仏語四週間』といった、いわゆる『四週間叢書』が出されていた。

2017年04月26日

寒来暑往 八木亀太郎

7  印度青年キショール君 (二)

たしかこのボースさんの紹介だったと思うのだが、ある日、一人の印度青年が私を訪ねてきた。これが表題のキショール君である。