一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

宇和島歴史紀行 近藤俊文

2017年06月15日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるXI

その時に活躍したのが、本当は時代遅れだったが、図体だけはばかでかい、慶応二年盛夏に鹿児島と宇和島にやってきたプリンセス・ロイヤル号だった。

2017年04月06日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅩ

退助と云い、象二郎と云い、綱と云い、もちろん茂も含め、やはりこの時期の土佐っぽは大物ぞろいだ。ひとり、宗城公を除いて、伊予は土佐の豪儀さにはかなわない。

2017年02月27日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅨ

五代才助は維新期宇和島藩のキーパーソンだった。慶応二年のパークス宇和島来航に一役買っただけでなく、維新の扇のかなめであった大久保利通の信頼を受けていた才助が、宗城公をミカド政府の中枢に入れる動きをしたと私は見ているからである。

2017年02月17日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅧ

たしかに、手を下したのは堺守備を担当していた土佐藩士なのだが、なぜ、事件が起きてしまったのか。森鴎外の小説をはじめ、フランス水兵がいたずらをした、土佐藩の旗を盗んだ、と後付けの説明はいくつかあるのだが、無抵抗の十一名を、一方的に執拗に惨殺する根拠としては弱すぎる。

2017年02月13日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅦ

 話はもどって二月十五日、公使団との和親の宴がたけなわになった頃、恐るべき一報がもたらせられた。

 ー堺湊でフランス兵が一人土佐兵に殺されたー

2017年02月07日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅥ


 こうして、九日の夜、西宮の永福寺で瀧は切腹する。

 サトウやミットフォードはじめ各国外公団はみな、その従容とした死の作法に感動した。

 

2017年01月31日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅤ

当然のことながら、公の手足となって働いたのは宇和島藩士だった。正確な数字は分からないが、慶応四年の上京には三百人の宇和島藩士が従ったと、初代日銀総裁となった松尾臣善(岡山出身の宇和島藩士)はのべている。 

2016年12月27日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅣ

慶応四年正月まだ松の内の十一日、神戸は新しい居留地として建設ブームに沸いて、浮きうきとして気分に充ちていた。と突如、激しい銃撃の音がこだまして、槌音やざわめきが凍り付いてしまった。岡山藩兵と神戸在留の外国軍が戦闘状態に入ったのだ。

2016年12月26日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅢ 

ミカド政府は三つの困難に直面していた。空っぽの国庫、戊辰戦争、兵庫に蝟集して圧力をかける欧米列強の艦隊と手強い外交官たち。その外交団の筆頭が辣腕英公使ハリー・パークスだった。

2016年12月22日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅡ

その二 最後まで武力行使に反対した宗城公

 宗城公は慶喜を首班とする合議政体を望んでいたが、事態は正反対の方向に流れていく。

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