一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

6南無 岡田顕三翁 (十)

(十)

これはある時、こうちゃんからも聞いた話だが、高間さん(こうちゃんはいつもそう呼んでいた)の学生時代、学資も生活費も岡田翁が悉皆(しっかい)[1]面倒を見られ、物心両面で高間さんを援助されたのである。こうちゃんにとっても高間さんはいい兄貴分だったらしい。

高間さんが卒業の年に、顕三翁は彼を呼ばれ、『高間君、君は就職はどうするんです。色々考えもおありであろうが、私にできることがあったら遠慮なしに言ってくれ』と辞を厚くしてたずねられた。翁にしては、彼も家が貧しいし場合によっては、藤倉へでも引取ってやらねばとの老婆心もあったに違いない。しかし高間さんは、『私が今日あるのは一(ひと)偏(え)に岡田さんのお蔭です。親身も及ばぬお世話になりながら、ご恩返しもできませんが、岡田さん、僕は作家で身を立てたいのです』と自分の決心を打明けた。

それを受けて、岡田翁は、『そりゃいいことだ。人それぞれに、天分をもって生まれついている。そう言えばたしかに君は作家にむいている人間だ。作家として君が自分の天分を存分に生かしてくれるのなら、お互い、こんなに幸せなことはない。一生懸命やってくれよ。高間君、一生懸命になあ』と声をつまらせて、高間青年を励まされた。岡田翁の慈愛と寛容と鼓舞がなかったら、作家高見順は存在しなかったであろう。この対話の瞬間に、左翼文学崩壊後の錯乱せる文学情況にあって、説話形式を文学方法論として提起したあの独特の高見文学が胚胎したとも言えよう。

順さんも僕も、昭和十七年にはビルマのラングーンにいたのだが、一度も出合わなかったし、また順さんが十九年六月に徴用で華北に出征した三カ月後の九月に、私も応召されて華中に走ったが、それも、なにかのめぐり合せであったのであろう。

岡田翁は水彩画家の三宅克己氏のパトロンでもあった。克己さんが若い頃フランスに留学するとき、たまたま船室が同じだったのが縁で、画伯が大成するまで、ずっと面倒を見られた。

また岡田翁は小笠原島に知恵遅れ者の施設を自費で建てられ、当時あまり顧みられなかったそうした不幸な人たちに安住の場を与え、生前しばしば自ら慰問されている。所長、医師等職員の給料も勿論岡田翁が負担されたのである。

私は昭和二十二年に復員し、上京の機会にこうちゃんの宅を訪ねた。結婚して五反田の方に新居を構えていたが、尊父はすでに幽界に旅立たれていた。帰郷以来着るものもないままに、カーキ色の軍服を着ていた私だが、服のポケットに残っていた除隊の時にもらった小額の給金を全部紙に包んで、翁の霊前に供えて頂くようお願いして、こうちゃんと別れた。死生のちまたをさまよって心もすさみ、その場では涙も出なかったが、こうちゃんと別れて駅へとぼとぼと歩いていくうちに、そぞろに昔がなつかしく、熱いしずくが頬をつたった。

 

[1]残らず。すべて。