一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅣ

 その四 神戸事件

  発端

 慶応四年正月まだ松の内の十一日、神戸は新しい居留地として建設ブームに沸いて、浮きうきとして気分に充ちていた。と突如、激しい銃撃の音がこだまして、槌音やざわめきが凍り付いてしまった。岡山藩兵と神戸在留の外国軍が戦闘状態に入ったのだ。

幕府と薩長の緊張が高まって、戦乱の予兆の中、大坂にいた外国勢は大挙して神戸に移っていた。

外交団を率いるのが、シナで勇名を馳せた強もて外交官ハリー・パークスだった。

こりゃ、えらいこっちゃ。徳川とエゲレスと腹背に敵をもうけたら、ミカド政府はおしまいじゃ。パークスを怒らせたらとんでもないことになるぞ」

まだ無役だったが、英語ができる伊藤俊輔は神戸で外交団相手に奮闘していた。

四万五千石の尼崎藩は松平氏で譜代、新政府はその動静に目を光らせ、岡山藩に牽制出兵を命じていた。

岡山藩家老日置忠尚は、銃隊三隊の上に大砲六門を引き具し、総勢三百人で繰り出した。日置家は家老と言っても藩主池田氏一門で支藩級の一万六千石。大名行列として西国街道を「下へ下へ」と上ってきたのだ。

その日は火曜日だったが、大勢の外国人が大名行列見物に出てきた。その中のフランス水兵が二人、銃隊と大砲隊との間を横切ろうとした。彼らとしては、パレードをすり抜けてもほんのちょっとした冒険で、戦争になるとは考えもしなかった。

ところが、砲術隊長の瀧善三郎にとっては、そうではなかった。

水兵の行動は供割という最大の侮辱で、見逃せば腹を切ることにもなりかねない。気がついてみれば、馬から飛び降りざま槍先でフランス兵を倒していた。反射的な行動だったに違いない。

家に逃げ込んだフランス兵二人はピストルを手に構えた。

「鉄砲、てっぽう」

とあわてた善三郎は叫んでしまった。こうして戦闘が始まったのだ。

 

 

薩摩の罠にかかって、鳥羽伏見の挑発に乗ってしまった幕閣だが、一月三日には在留外交団を集めて、戦闘の開始を知らせ、薩藩には軍艦・兵器を売らないように要請した。この手続きで、国際法上国内は内乱状態と定義され、主権を幕府に認めれば(フランス公使ロッシュの立場)、天皇政府が反徒・抗戦団体となる可能性も出ていた。

パークスもまた、謁見いらい徳川慶喜を偉大な人物と認識して内心には敬意が育っていた。

ミカド政府上層部にはその辺の事情を理解できる人物が少なく、事態の深刻さを理解できないでいたが、ロンドン留学組の伊藤や五代才助、寺島陶蔵はことの深刻さに震え上がった。

 

     東久世通禧

神戸裁判所總督東久世通禧が政府の責任者として十五日に外交団を謁見し、政権が王政復古のミカド政府に移ったことを宣言して、在留外国民の安全を保証した。

 

これで一応英米仏軍は神戸占領を解くのだが、パークス率いる外交団は、犯人の差し出しと断罪をあくまでも要求した。尊皇攘夷派がもり立てたミカド政府である。攘夷テロの撲滅を要求しているのだ。

「異人応対はこれまで経験がない」と三条に言われた東久世は、立ち往生してしまう。