一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

2016年12月05日

風信録

スポーツ文化の振興で感動と笑顔を ~愛顔つなぐえひめ国体・えひめ大会に寄せて~

愛媛マンダリンパイレーツ(以下パイレーツ)で、弓岡敬二郎監督の背番号「77」が永久欠番となった。弓岡氏が来季から古巣オリックスで育成統括コーチを務めることになったためである。

2016年12月02日

風信録

坪内寿夫翁と大衆演劇

坪内翁は、もう今の日本には決して現れることのない、人情の事業家であり、国の行く末を案じる国士であり、そして企業を私物化せず「綺麗で清貧を守り通した経営者」であった。

2016年11月15日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

宗城ファミリーは皆英国派

もう一つあります。これは是非付け加えておきたい。
これは私の考えですけども、明治以後、宇和島の指導的立場に立たれた人々、というのはまず、児島惟謙から始まって、末広鉄腸、土居通夫、穂積陳重、穂積重遠、数年前に宇和島に来ていただいた穂積重行先生の系譜です。

2016年11月07日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

その後のパークス

金子仁氏が、五年前になりますが、パークスの墓を調べにロンドンへ行かれました。その結果は、直系子孫はオーストラリアに移住したとのことで、消息が分からなかったのです。

2016年10月26日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

村松恒一郎が伝えたかったこと

さて、最初に出た村松恒一郎です。彼はこういう結論をも出していたのです。村松が書いたかどうか分かりませんが、編集責任者となっているこの『鶴鳴余韻』には・・・

2016年10月17日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

美々しい行列はどこを練ったか

来航イギリス人一行が樺崎(かばざき)御揚場(おあがりば)に上陸して南御殿に至るパレードの通行路を、宇和島城下図に書き込んでみました。それはそこに展示してあります。

2016年10月05日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

いよいよ正式訪問行事が始まった

二十八日が正式訪問で、大砲をゴンゴンお互いに撃ち合いして…。午後にパレードをやってます。

総勢百人を超えてますよ。先頭に足軽の兵隊がライフルー上等の鉄砲ですーを担いで並んで行進、その先には乗馬で物頭入江佐吉が立ち、ライフル兵隊の後に松根図書の息子の内藏―のちの権六ですーが、騎乗で英士官の馬列の前を行く。

2016年09月30日

寒来暑往 八木亀太郎

5 内幸町物語

人仮りに、『盛年重ねて来たり、一日、東海の都を再訪し得ば、汝何処の辺に赴くや』と問うとせば、私は躊躇することなく内幸町と答えるであろう。
旧市電の日比谷交叉点と田村町との間に内幸町という電停があった。日比谷公会堂のすぐ側の四つ辻のところである。

2016年09月26日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

サラミス入港まで

二十五日は宗城公と宗徳公が公式訪問ではなくてお忍びで乗艦して、朝から晩まで七時間も船に居て…。その時に宗城公の当時の西洋現代史、ナポレオンに対する知識が―当時の江戸時代というのは、ナポレオンというのは物凄くよく知られていたんですね。

2016年09月20日

寒来暑往 八木亀太郎

4 続・日米秘話

 戦前の二十五万㌦といえば莫大なもので、今日の日本の金でいくばくに相当するか、私には概略の見当さえも立たない。それを、『米国の学者には日本語が分からないから』と言ったり、『日本人の手でやらなければ恥だ』などと言って拒絶するのは、どうも合点がいかなかった。