一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

6南無 岡田顕三翁

(一)

俗人に南無(なむ)[1]というのはおかしいが、実は岡田翁が他界されていた。私はいつも翁の名前に南無を冠した。

南無とは申すまでもなく、仏教語で、梵語(ぼんご)[2]ナマスの音訳である。与格の名詞と結合して、何々に帰命(きみょう)[3]するという意味になる。しばしば、帰命頂礼(きみょうちょうらい)[4]と熟す。

大学二年まで、私は管瀬芳英大和尚の創設になる小石川久堅町の真宗派の学寮に寄宿し、朝夕、正信偈(しょうしんげ)[5]を誦唱(すしょう)[6]した。当時の寮長は青原慶也先生でこの方は本願寺派の学校である千代田女専の教授をされていたが、もともとは広島のあるお寺の住職である。この青原先生に正信偈を習った。この経は『帰命無量寿如来』という言葉で始まるが、それは南無阿弥陀仏の漢訳である。

設者の管瀬先生はかつては東京の真宗学界の偉傑で、多数の有能な門弟を育成された人である。当時           はすでに他界されていたが、その法要の時などには、友人門徒が多数この学寮に参会した。本郷で仏教道場をもっておられた近角常観師、大学関係では藤岡勝二、長井真琴、常盤大定(いずれも文博)等の諸先生もその中におられた。われわれ寮生も、そうした硯学(けんがく)[7]の末尾に列して一緒に正信偈を唱えた。こうした雰囲気の中にいたので、青原寮監から伝授されたこの南無という無量無辺(むりょうむへん)[8]な言葉が自分の青年期の思念に融和し、爾来(じらい)[9]、ごく自然にこの岡田翁に南無して来たのである。本来は神格への帰命であろうが、狗子(くし)[10]に仏性ありで、人間は誰もみな仏様だから。

岡田顕三翁は人も知る藤倉電線を興した実業家であるが、大悲大慈、洵(まこと)に神様、仏様といった方だった。私の青春時代の心の師でもあったので、あえて、南無岡田顕三翁と題した。

前週の文末に書いた高見順さんも、私同様、この岡田翁の恵沢(けいたく)[11]にあずかった人の一人であり、私が作家高見順を語るとすれば、この岡田翁のことを書かないわけにはいかないのである。そして、そうすることが、私としては、この二人の忘れえぬ故旧に対するせめてもの供養だと信ずるからである。

 

[1]仏や三宝などに帰依することを表わす唱え言葉。

 

[2]古代インドの文章語、サンスクリットの別称。

 

[3]仏の教えを深く信じ、身命を投げ出して帰依し従うこと。

 

[4]地に頭をつけて礼拝し、深く帰依の情を表わすこと。

心から仏に帰依すること。

 

[5]親鸞聖人によって書かれたお経。

 

[6]声を出して読む。となえる。

 

[7]広く深く学問を修めた人。

 

[8]はかり知れないこと。

 

[9]それ以来。

 

[10]犬の子。

 

[11]恩恵を受けること。めぐみ。