一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅡ

  その二 最後まで武力行使に反対した宗城公

宗城公は慶喜を首班とする合議政体を望んでいたが、事態は正反対の方向に流れていく。

慶応三年五月二十五日の薩摩藩邸会議で決定した討幕方針を、宗城公、春嶽、容堂らがいつ察知したか。肝心かなめの久光はどうだったのか。

 

    松平春嶽

のちのち久光は激しく大久保、西郷を憎悪するのだが、この時には久光は討幕に合意して、長州の山県有朋に六連発拳銃を下して激励したとさえいわれている。

薩藩の討幕方針も長州系公家を巻き込んで、着々と潜行していった。将軍慶喜が政権放棄を諸藩に聴聞したその日に、中山忠能、中御門経之、正親町三条実愛ら討幕派公家が、慶喜追討の密勅を長州と薩摩に流しているのだ。

十二月八日から九日にかけて、反幕勢力は武力で御所を制圧した。いわゆる王政復古クーデターである。摂関公家勢力は一掃され、中下級公家が牛耳る明治新政府の誕生である。

 

だがさすがの岩倉でも、土佐、尾張、安芸、越前

    山内容堂

諸侯の穏健路線を抑える事は困難だった。討幕側のあせりがつのった。蔭では隆盛の練りにねった謀略がひそかに進行している。 十二月二十八日、新政府の議定兼参謀職についた宗城公は、

 

ー西郷と大久保が大芋(久光)を騙して幕府を討とうとしている。容堂、春嶽と謀って  大芋に知らさなければ ー

 

と日記に書いた。のんきなものである。お殿様たちはやっと気づいたようだ。

大芋がこの時点で、西郷らの討幕を知らなかったわけはない。国主久光が動いたからこそ、薩摩一藩をあげての戦争が可能だったはずだ。門閥層には佐幕派も多かった。

しかしやはり久光は騙されていたとする向きもある。維新史といえば昔はテロリストまがいの志士の自慢話ばかりで、お殿様はお呼びでなかったのだが、最近はさすがに潮目がちょっと変わってきている。

六日後の一月三日、隆盛らの謀略どおり、鳥羽伏見の砲声がついに御所にもとどろき、恭順の慶喜がこともあろうに朝敵となった。

「この戦争は私闘だ。将軍は朝廷に背いていない。朝敵ではない。議定の我々の頭越しにこんな理不尽が通るのなら、私どもは議定の名に値しない。辞職する」

宗城、容堂、春嶽は口をそろえて抗議する。

「天皇叡山遷移計画など至重至大之御儀が参謀の私にも相談なく決まるのなら、参謀も辞退する」

西郷は戦局が不利になれば、天皇を叡山から長州に拉致するために、越前に軍艦を待機させていた。ところが、それも謀略だったようで、叡山遷輿と見せかけて陸路「玉」を山陰道へ移す計画だったという。西園寺公望が鳥羽伏見戦争開戦の翌四日早々に、山陰道鎮撫史として、長州兵を引き具して鳳輦逃走経路の確保に当たっている。

 

    三条実美

参謀を辞退した公だったが、林玖十郎を後任として参謀にさせている。この辺が公らしい抜け目のなさだ。

「宇和島兵を戦争には出さない」と公は云い放った。

三条実美はあわてた。公らが新政府を出れば、諸侯が動揺する。

「宇和島は御所の警護に当たってもらう。」

三条の妥協案である。

宇和島兵は戊辰戦争で血を流さなかった。それが新政府での宇和島人の位置を決めた。徹底的に政府から排除されるのである。