一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

6南無 岡田顕三翁 (二)

(二)

昭和の八、九年頃、私が東拓ビルのコロムビアへ出入りしたことは前述の通りである。満州事変の前後、コロムビアでは、その時代のアジア主義の擡頭に呼応して、外国語のレコード(当時はまだテープがなかった)の複製を企画し、当時まだ日本では入手し難かったリンガフォーンの英、独、仏版の解説付のコロムビア盤を出すことにし、蒙古語など、リンガフォーンにないものは、コロムビアが独自のオリジナルを作製することになった。この企画の直接の担当が、さきに記した家永栄吉君や高間芳雄先輩だったのである。私は家永君から依頼され、レコードの解説や吹込みを東都諸大学の先生連中に交渉する役目をもたされたのである。

家永君は酒豪で、私が行くと、必ず地階の前述したレストランに私を案内し、杯を傾けながら、同窓の気易さで、なにかと四方山ばなしにうち興じた。飲めぬ小生には苦痛だったが、彼にはなかなか老熟した社会人の一面があり、自分の知らないことを色々と教えてくれたし、話題の豊富な青年だったので、彼との対談はさして嫌ではなかった。

この食堂は紫色の暖簾が入口にかかっており、給仕の女の子たちもみな、紫色の着物を着ていた。あまりきれいな店ではなかったが、雑談をするにはうってつけの、静かな場所だった。

昭和九年の夏だった。家永君がこの紫嬢にビールのジョッキを注文し、コロムビアの儲け話を独特の世慣れた口調でやり始めた。

『東京音頭ではずいぶん儲かりましたよ。歌詞も作曲も実にうまく乗ったですからね。出すものが全部あの調子で行けばいいんですが、八木さんにお願いしている語学関係のなんぞは、実際は営利を度外視してやる腹です。まあ僕がいるから、課長も乗り気になってる程度で、どうせ売れっこありませんよ』。

話が歌詞の選定に飛び火して、西条八十のことが話題になった。

『家永君は職業柄、一流の詩人とか歌手に会えて楽しいじゃないか。東京音頭の歌詞なんだけど、あれ別に何の変哲もないように思えるのだが、あれで市丸(当時有名な芸者)が歌うと、ぱっと花が咲いたようなムードを醸し出すから不思議だね。歌というものは、とかくそうしたものかも知れないけどな』。

すると家永君が、ふと横を向き、紫の暖簾をくぐってはいってきた一人の痩せがたの青年の方に視線を投げた。相手が近づくと、にっこり笑って起ち上がり、『ああ、いいところへ来ましたね。いま例のレコードの話をしていたんですよ』。