その一 宗城公ミカド政府の議定となる
慶応三年二月、西郷隆盛が薩摩国主島津久光の密書を携えて宇和島にきた。
前年には、幕府が長州征伐に破れ、孝明天皇が急死して、毒殺の噂が宮中を駆け巡った。明けた慶応三年、徳川慶喜が将軍職を継いでいた。
新将軍の要請で、朝廷は宗城公、久光、前福井藩主松平春嶽、土佐藩隠居山内容堂の四侯の上洛を命じ、宗城公は四月に入京した。
薩藩の武闘派はこれをチャンスと捉えた。
慶応三年五月二十五日の早朝、公と春嶽は、慶喜との夜を徹っした二日がかりの激論のあと、茫然と御所の縁に立っていた。雨雲の間から射した初夏の朝日が目を射て、疲れがどっと噴きだし、敗北感がつのった。
朝廷会議では慶喜が、尹宮朝彦親王と鷹司父子を味方につけて、諸卿をねじ伏せてしまった。悔しさのあまり、二条斉敬摂政を始め公家たちがおいおいと声を上げて泣いた。
孝明天皇があれ程恐れていた兵庫開港が決まり、公ら四侯が画策してきた長州の復権は棚上げされた。
幕末史の核心に座る大石が動いた。
ーもはや、武力討幕しかないー
翌日、小松帯刀、西郷、大久保一蔵ら薩藩在京首脳部が出した極密の結論だ。
今にも戦乱が始まるかと、おののく公家達。宇和島藩上層部も、宗城に一日も早く帰国するよう執拗に要請してきた。公は八月十九日に帰国すると公表して、前日の十八日に急遽退京した。襲撃を避けるためであった。
ところが、年の瀬も押し詰まった十二月八日から九日にかけた王政復古のクーデターで、ミカド政府が誕生し、急遽上洛の勅命がまた公に下った。
戦争に逢うかも知れず、文久出京なみの随従藩士三百人を志賀頼母(松根圖書弟)が引率した。
二十三日入京した公は、二十八日に新政府の議定兼参謀職に就いた。議定は有栖川宮総裁に次ぐ二番目のランクである。
翌日公は、大坂城の慶喜への辞官・納地(宮中の官位を捨て、土地の一部を朝廷に差し出す)を命ずる勅命を慶喜が拝受した、との春嶽の急報を受けた。
ーこれで戦乱は避けられる。鋭鼻君(春嶽のあだ名)の誠実と、慶喜公の恭順、英断の なせる技だー
と宗城公は安堵の胸をなで下ろしたのである。
公は文久時から、孝明天皇に特別な親近感を抱いていた。山稜の礼拝を済ませていないことが気がかりだった。
皇室菩提寺泉涌寺に出ると、丁度ご法会の最中だった。拝礼がすんでご位牌の前の散華の蓮華をいただいた後、山稜に参拝した。
君まさはかくも々々と世をうらめ
かすならぬ臣も袖しほりつ々
と一首を献じたのである。
公が天皇の突然の死をどう受け取っていたかは知るよしも無い。だが、世の中が倒幕という先帝の望まれない方向に流れていく衝撃を、公が共有していたとは言えそうである。