一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

Ⅱ.韓国の新聞

加藤氏の一件が生じて以来、韓国・中国情勢が気になり、毎朝「朝鮮日報」「中央日報」「東亜日報」「ハンギョレ新聞」「サーチナ」「レコードチャイナ」(後2者はポータルサイトによる)を読むのが日課になった。朝鮮語新聞の場合は、Google自動翻訳機を利用しているようだが、日本語訳がいかにも貧しい。

 

もうひとつ気になるのは、日本語新聞では「リード」と呼ばれる記事要約が冒頭に付いている。学術雑誌論文でいうと「抄録(Abstract)」に相当するものだ。しかし韓国語直訳の新聞記事の場合、このリード文がない。よって全文を読まなければ意味が取れない。「これは19世紀の医学論文だな」と思う。

当時の医学論文を読むと1例報告に40頁も費やされており、引用文献はあるが「抄録」がない。「当時の学者はよっぽどヒマだったのだな…」と思う。

何で韓国の新聞にリードがないのか?これが不思議である。

 

以下はひとつの仮説であり、事実の間違いについての指摘があればいつでも訂正したい。

 

       中央日報

福沢諭吉は明治15(1882)年、「不偏不党」を社是とする日本初のクオリティぺーパー「時事新報」を創刊した。朝鮮の新聞は、諭吉の弟子で慶應義塾の卒業生である牛場卓蔵が朝鮮に渡り、1883年に朝鮮初の新聞「漢城旬報」を発刊した。諭吉は「漢字ハングル併記体」の文章を考えていたが、これには朝鮮政府の強い反対があり、「漢字ハングル併記」でなく、漢字表記となった。「漢城旬報」のスポンサーは諭吉で、彼は「漢字ひらがな併記」の利点を理解した上で「漢字ハングル併記」を朝鮮にも普及させようとしたのだ。

本で「時事新報」が営業的にも大成功を収めたのに対して、朝鮮の両班(ヤンバン)は漢文しか読まず、庶民はハングルしか読めないという文化的落差に無自覚だったこともあり、福沢は大いに落胆した。これがその後の彼の「脱亜入欧論」(アジアはもう見捨て、西欧の仲間になろうという論)の始まりとなったともいわれる。

1886年に漢字新聞「漢城旬報」が廃刊となり、同年に朝鮮初の「漢字ハングル併記」の「漢城週報」が誕生した。この時のハングル活字はすべて横浜で鋳造された。(実際には「漢城旬報」の「漢字・ハングル併記体」を予期して諭吉が活字と印刷機を手配したものが倉庫に眠っていたのを買い取った。)

創刊に関与したのは慶應義塾卒の日本人山本角五郎(福山出身)と慶應義塾卒の朝鮮人である。

 

 

 

     ハンギョレ新聞

 

「漢字ハングル併記」の新聞はこれが始まりであり、「日帝時代」を通じてひろく普及した。(こうした事実は朝鮮語の書籍には一切記述されていない。)

新聞普及のための基礎条件は、「識字率」だが、李朝末期における識字率のデータは手元にない。

1910年、日本が朝鮮を併合した年の公立小学校生徒数はたった2万2000人。これが1937年には45倍の901万1200人に増加している。(朝鮮の義務教育制度は「日帝時代」には結局導入されなかった。)(G.アキタ & B.パーマー「日本の朝鮮統治を検証する 1910-1945」草思社)

 

 

教育の普及のためには大量の正規教師の養成が必要となる。

だが日本式に多数の師範学校を作り、義務教育を推進すれば、朝鮮の特権階級である両班と庶民(ペクチェ)との身分差を破壊しかねなかった。これを遂行しなければ真の「朝鮮近代化」は達成できなかったのだが、軍人が主導した朝鮮総督府には、そこまで踏み込む勇気がなかったのだろう。

 

新聞の「リード文」について書いている。もとより手元に当時の新聞の縮刷版はない。現在日本語で読める現在の「朝鮮日報」「中央日報」「東亜日報」「ハンギョレ新聞」には、すべてリード文がない。よって長い長い記事を流し読みするしかない。これでは読者は不便で仕方がない。

「一億人の昭和史1.満州事変前後:孤立への道」(毎日新聞社、1975/1)を開いて見た。これは昭和1(1926)年の報道写真集であり、明らかに当時の邦字紙記事にリード文が付いていたという証拠は見つからなかった。

 

どうやら明治期以来の邦字新聞にはリード文がなく、朝鮮の今日の新聞は、「漢城週報」のスタイルをそのまま引き継いで、今日に至っているのではなかろうか?日本語の新聞は、戦後のどこかでリード文が載るようになったのではないか、と思っている。それがいつ、どの新聞から始まったかは、目下特定できない。

(その後1941=昭和16年、私の誕生年月日に刊行された「大阪毎日新聞」の原本が書庫で見つかった。前に、付近の古民家解体業者が開いた「骨とう屋」で見つけた。「天恵」としか思えず、ためらわず買った。

たった4頁しかなく、題字の左に社説が載っている。本文活字は7ポイントくらいで、まず肉眼では読めない。見出しは右横書きだ。本文そのものが短く、やはりリード文がないことを確認できた。)

 

このことから戦後に紙不足が解消され、新聞のページ数が増え、1本の記事量が増えるにつれ、「要約」であるリード文が登場したものと推定される。

今日の「毎日」では一面には書籍広告が載っているが、当時のそれは歯磨きとか「サロメチール」(サロンパス)などの物品広告のみで、書籍広告などない。これは現在、テレビ・コマーシャルに受け継がれている。裏面が「葬儀広告」であるのも隔世の感を感じる。もちろんラジオ番組表などはない。当時の新聞はNHKを敵視していたのだろうと思う。

 

 

      漢城週報

今のところ状況証拠から、朝鮮に漢字・ハングル混淆文の「漢城週報」が創刊された時にはリード文がなく、他の朝鮮語紙がそれをまねたので、朝鮮語紙は漢字・ハングル混じりだが、リード文がなく、戦後は漢字を廃止したのでハングルのみのベタ記事なったのではなかろうか、と推測している。時に「東京特派員」の記事を載せる韓国紙もあるが、やはり本文のみで「リード」がないという特徴が見られるのも、その証拠だと思う。

つまり新聞が朝鮮に初めて導入された時は、日本語のものとほとんど変わらなかったが、その後の過程で日本語新聞は「リード文」の挿入という変革があったが、朝鮮新聞は日本の新聞をコピーしたものの、その後の新聞進化に追いつけていない、というわけだろう。

 

韓国ABC協会のデータ(2013)によると、新聞の有料購読者数は、「朝鮮日報」129万部、「中央日報」81万部、「東亜日報」70万部, 「ハンギョレ新聞」25万部だという。人口が日本の半分の国だから、2倍すれば、日本の新聞購読率との比較がつく。要するに読売、朝日レベルで読まれている新聞は一紙もないということだ。

よって韓国人は新聞を読んでいないと思う。では情報はどこから得ているのか?恐らくネットとSNS及びポータルサイトであろう。このシステムでは、情動に支配されて、理性が麻痺する恐れがある。韓国情勢の危うさは実にこの点にあると思えてならない。