英艦渡来がもたらしたもの
さて、最初に出た村松恒一郎です。彼はこういう結論をも出していたのです。
村松が書いたかどうか分かりませんが、編集責任者となっているこの『鶴鳴余韻』には
「パークスは、この来航とこの款待(歓待)とを深く感銘したりしを以って、後年、宗城公が外国知官事として外交の衝に当られる時、非常の便宜を得られたるなり」
つまり、「パークスと仲良くしたことによって、宗城公が明治の行政トップに立たれたときに、非常に日本の国にとってプラスであった」
という結論を出しているのです。
これが即村松の結論かどうか判りませんが、村松も同じようなことを考えていたと私は思います。
知られていない宗城公とパークス、薩長開明派青年との協働
村松のこの言葉をすこし考えてみます。
宗城公は、明治二(一八六九)年に民部大蔵卿、翌三年(一八七〇)には大蔵卿として長州ファイブと薩摩のイギリス留学生の俊秀や宇和島の洋学グループを使って、日本の近代化にとりくみます。
宗城公が取り仕切ったのは灯台、貨幣、電信、鉄道。これは宗城公がトップで大隈、伊藤、松木洪庵(弘安)とか長州ファイブの連中、薩長の若い連中を使ってやった。これは間違いない。意外にこの事実を日本の歴史家がご存知ない。
宗城公がパークスと協働しながら、薩長の若い開明世代を使って、四つの近代化を推進したことは、我々宇和島人の誇りとすべきことです。
近代化の実務にたずさわった人々
宗城公が取りしきった四つの近代化
鉄道建設費応募の蹉跌とその処理