一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

5 内幸町物語

(一)

人仮りに、『盛年重ねて来たり、一日、東海の都を再訪し得ば、汝何処の辺に赴くや』と問うとせば、私は躊躇することなく内幸町と答えるであろう。

旧市電の日比谷交叉点と田村町との間に内幸町という電停があった。日比谷公会堂のすぐ側の四つ辻のところである。

初めて上京した頃、東京の町名には昔の情緒が残っていると思ったが、麹町内幸町も親しみのもてる名前の一つだった。東京の町は面積に著しい差があった。例えば、本郷西片町十番地などは、松山の旧城北地区と匹敵するくらいの広さで、佐佐木信綱、藤岡勝二、小倉進平等々、大学関係のお歴々をはじめ、有名人の家が並んでおり、今東光、徳田秋声といった文壇人もその頃西片町の住人だった。

また、賀川豊彦が若い頃に活動した貧民窟のあった小石川久堅町七四番地も『植物園』から大塚線の竹早町に達する大地区で、田山花袋の『蒲団』にゆかりのある大日本印刷の広大な敷地もその中に包含されていた。

内幸町はこれと反対で、電停を中心として半径百米の円を画けば、ほとんど全部その中に収まる。電停の四つ角にある勧銀ビル、その南筋向いにあった旧JOAKのビル、電停を東に入ると右側にあった大阪ビルなどが主要な建物だった。

私は元来孤独を好み、求めて人と交わらず、したがって、暮夜秘かに人の門を敲(たた)くといったことは稀れだったが、にも拘らず、この狭い内幸町、中国流に云えば、僅か方一里の天地に、五尺の躯を託すに足る多数の師賢に、『文を以て相会し』えたことは、天与の恵沢と考えずにはおれない。なつかしの町よ。ここに師あり、ここに友あり、過ぎにし歳月の都の春の名残を惜しむ所以もまたここにある。

 

(二)

日比谷公園の南口を出て道路を渡った所が内幸町一の三であった。そこに、太平ビル別館と称する幽霊屋敷同然の木造二階建の家があった。昭和十年前後に、私はこのビルによく出入りした。昔一階に日印協会があり、会長の副島八十六翁には大分お世話になった。翁は喜寿を迎えられようとするのに、矍鑠(かくしゃく)[1]たるもので、その気概はわれわれ白面の若ぞうを後(しりえ)に瞠若(どうじゃく)[2]たらしめるものがあった。当時の年寄り衆は明治の隆盛期に青壮年時代を過ごした人なので、唯我独尊、孤高を持して我執を貫き、物事に屈託せず、万人をして威服せしめずんばやまずといった気魄をもっていた。翁はよく青年を叱り、また青年を愛した。先生の一の弟子は新潟県選出の高岡代議士。この人は議会でも、印度問題を掲げて時の政府に迫った。

036昭和十七年、私が上司の命によりビルマに飛んだことは前にも記したが、その時に、私に同道してくれたのがこの高岡先生と、日印協会の三角青年だった。かつて副島翁は多年、印度の日本商品館の所長を務められ、高岡先生は若い頃、東京外語の印度語科を出て印度に赴き、副島翁の下にいたのである。両先生の長い印度の生活にまつわる綺談を代議士から宿舎で話してもらったが、実に痛快無比、大いに旅愁を医すに足るものがあった。当時の三角青年は現在日印協会の会長をしており、先年来信あり、いずれ機をえて、往時を偲びたい所存である。

 

(三)

太平ビル別館の二階には昭和十二年に創立されたイスラム文化協会があった。これは笠間杲(あき)雄、内藤智秀両博士、匝瑳(そうさ)胤次海軍少将、今岡十一郎先生が中心となり、当時の学界、政財界、出版界の第一人者と目されていた三上参次、村川堅固両博士、芦田均先生、樺山愛輔伯、平凡社の下中弥三郎社長、毎日の高石真五郎氏、とくに大物では近衛文麿公等が後援して出来たもので、翌十三年からは『イスラム』という機関誌が発行された。それに伴って小生の外に、東洋史の一、二年後輩の村上正二君、独学でアラビア語を習った仙骨の山路広朗青年が研究助成金を頂くことになった。月額一金五十円也である。

私を笠間先生に紹介し、この会に推輓(ばん)[3]の労をとって下さったのが、前述の今岡先生だった。今岡、笠間両先生は既に六十の坂を越しておられたが、私の東京時代の学外の師傅(ふ)として忘れ難い人である。

今岡翁はハンガリーに滞在すること十年、ハンガリー語の権威で、外務省の嘱託をされるかたわら日洪協会の会長として両国の親善に尽された功績も大きかった。ブダペストの街路の名に『乃木』とか『東郷』というのがあったのも先生のハンガリーに残された置土産だったとのこと。また先生はよくあちらで、名付け親を頼まれ、自分の『十一郎』という名前をそのままハンガリーの子供にくれと所望されたとのことだが、日本語とハンガリー語は語感が似ているので、先方はさして奇異に感じなかったと先生が語られていたのを覚えている。

 

(四)

イスラム文化協会の会長は前記の笠間先生だった。先生は私の十五ヵ年の滞京中、真に畏怖の念を以て接しえた数少ない天才の一人だった。内幸町と先生とはいつも私の記憶の映像が重複する。先生は法学博士だったが、学界とは無縁な人で、鉄道省から外務省に入った外務畑では異色の逸材だった。日本人としては珍しい堂々たる体躯、彫りの深い顔、常に鼻眼鏡をかけ、とくに外国語を話しておられる先生は声まで外国人だった。ジュネーブの国際連盟事務局に多年勤務された後、スペイン公使を経て初代イラン公使(昭和六年頃)を最後に、公職をひかれた。その後、エジプトの綿花買い付けの交渉を目的とした、いわゆる日埃(あい)会商には、選ばれて日本側の首席代表となり、カイロに乗り込まれた。

これが先生の最後の桧舞台だったが、開会劈(へき)頭に笠間代表が行われたフランス語の演説は、日本の外交史上に残るようなすばらしいものだったということで、当時外務省雀の語り草になったほどである。英・独語にも堪(たん)能で、とにかく先生の語学力は、当時の旧制諸大学の先生など、学問という点を別にすれば、少なくとも私の見聞しえた範囲では、失礼ながら、はるかに先生の後塵を拝せざるをえなかった。先生の思い出は尽きないが、二、三その鬼才の片鱗を伺うに足る逸話を書き留めておきたい。

 

(五)

さて笠間杲(あき)雄先生の鬼才の一端だが、(承前)まず第一は、ジュネーブ駐在時代の話。先生は最初、部下に外国語の文書や手紙の草案を書かせたが、その内容や文面が先生の意に副わず、『ああ君、これなら僕がやるよ』といって、爾後、公文書は全部自分が引き受け、部下の手は煩わさなかった。『笠間さんに仕えた人は肝腎な仕事は全部親分がやってくれたので、実に楽でよかった』と言っていたという話を元カサブランカ領事の田村書記官から聞いた。

既述のごとく、先生は学界人ではなかったとは言え、なかなか以て一(ひと)廉(かど)の学者だと私は思った。昭和十四年、上海の東亜同文書院のパーカー教授が『日本語とビルマ語』という本を書いた。その書評を私が、東亜経調の機関誌『新亜細亜』に出したところ、先生は早速、きわめて専門的な質疑を私に向けられた。今時の外交官にはちょっとできない芸当である。

東京女高師の内藤智秀教授が日土辞典(日本語―トルコ語)を出版された直後、たまたまイスラム協会の事務所に笠間先生と私が居合わせたところへ、内藤さんが顔を出された。笠間先生は即座に、『内藤君、君の今度の辞書はだめだね』。『どこがだめだと言われるんですか』と内藤さんがけげんな顔をすると、『あれには家鴨(あひる)という語が脱けてるじゃないか。家鴨は東洋独特の言葉で、欧州では鴨も家鴨も言葉の上で区別がないことを君は知らないんだろう』。岩波文庫に『回教徒』という先生の著作がある。あの程度の本で脱稿までに二週間というのも他にそうたくさんはなかろう。外務省時代から多年先生が使われていた優秀な秘書がいたが、その人に先生は速記をとらせ、清書ができると若干補筆訂正し、忽(たちまち)にして出来上りという訳。馬もよかったが、御者がさらによかった。

JOAKのビルの勧銀寄りの筋向かいに、太平ビル本館があった。これも小さい建物だった。一階は食堂だったが、二階は太平洋協会の事務所になっていた。笠間先生と鶴見祐輔氏とが同協会の常任理事で、昭和十四、五年頃からは、いつもお二人がそこの役員室で机を並べておられた。『啓明会』の奨学金の件でお伺いしたとき、『いつ、どこで、誰に会って下さい。連絡は私がしておきます』と要件は一分間で完了。一方、鶴見さんは童顔で物腰の柔かい紳士だった。有名人ではあったが、私にはさして魅力がなかった。昭和十八年、笠間さんは南方司政長官を拝命し、非常によろこんでジャバに赴任されたが、終(つい)南溟[4]の波濤[5]に散華(げ)されてしまった。痛恨のきわみである。先生、お世話になりました。

 

(六)

次の建物に移ろう。さきの太平別館のすぐ西にヘラルド印刷の建物があった。姉崎正治(潮風=小石川原町の姉崎邸の門標には別の姉という字が書いてあった)先生の退官記念に、未発表の先生の論考をまとめて出版することになった。その印刷を引き受けたのが、このヘラルドである。この記念出版は教え子たちの発起によるもので、その中には宇野圓空、石橋智信、岸本英夫、大畠清など宗教学界の錚々(そうそう)たる学者がいた。天理教の故中山管長も先生の薫陶を受けた一人で、中山さんは私より少し先輩だったが、師匠思いの人だった。ある年、先生の病篤しと聞くや、奈良の天理から、当時熱海におられた先生の病床へ、長期に渉って、一日も欠かさず、毎朝、新鮮な牛乳を届けさせられたという師弟愛の美談がある。

その時の出版対象の相当な部分は先生が大正の震災以前に渡欧されて各国の大学で行われた講義のノートだった。たまたま出版の実務を担当していたのが、宗教学研究室で副手をしていた徳島県出身の村上俊雄君だった。『おい四国猿、頼むぜ』というわけで、『誰の恩師かいな、姉崎御大は』などと愚痴をこぼしながらも、長い間、校正を手伝ってやった。先生の講義案は英、独、仏語と幅広く、いずれも立派な文章だった。とくに目に付いたのは、先生が、外国語の句読点とは別に、講義の際の声の切れ目を丹念に赤鉛筆でしるされていたことである。さすがに偉いもので、校正は楽ではなかったが、いい修行になった。

 

(七)

村上君を介してヘラルドの秋本宗市社長の知遇をえた。社長は五十歳代の働き盛り、山口の方だったが、その古武士然とした風丯(ぼう)が今も眼前に彷彿(ほうふつ)する。内外の事情に暁通し、秀抜な識見をもち、語学にも堪能で、決して一介の印刷会社の社長ではなかった。先生、先生といって大いに慕ったし、またなにくれとなく、異郷にあるわれわれの面倒を見て下さった。

001内幸町のレインボー・グリルで『うちは大部分が外務省関係の印刷です。外国語の印刷では東京一を自負しています。活字もインクもまだ日本のものが劣りますから、全部外国から取り寄せています。将来あなたが外国語でものを書かれるときには、私に任せて下さいよ』と言ってくれた秋本先生の身にしみる言葉を私は忘れることができない。こうした得難い人間の絆(きずな)を戦争は無惨にも断ち切ってしまった。今では富国生命館が建って、こうしたなつかしい人に出会った建物は跡形もない。ただ私の心の片隅に、ひっそりと昔のままで残っている。

ヘラルドの近くに、当時、『都新聞』の本社があった。『愛媛の都か、都の愛媛か』と言われたくらい、県人が多数この新聞社にいたので、私が後にこの界隈で勤務するようになってからは、昼休みの時間などによく足をのばし、相原さんという年配の方や同窓の熊野俊雄君とよく会ったものだった。熊野の甘言に乗って、『西洋剃刀談義』を書いたのもこの頃である。つまらぬことで名を知られ、二、三の知人から剃刀の鑑定を頼まれたのには閉口した。その一人が、東亜経調の戸野原豊君で、彼の令兄は帝大病院の産科の先生だった。

『兄貴から譲り受けたテイモー用の剃刀ですが、八木さん、見て下さいませんか』。剃毛という意味はピンと来なかったが、独乙[6]のヘンケルの高級品だった。黒い柄に、『産科トノハラ』と彫ってあった。錆びていたのを研いであげたら、とても喜んでくれた戸野原兄だったが、彼は不幸にも、昭和十八年のクリスマスの夜、バンコックで、空襲に遭い不帰の客となった。そのことを聞いたのは、私が復員してずっと後のことである。

浅き夢みなうつつにて今朝の梅

 

(八)

昭和の初葉といえば実に悠長な時代だった。しかもその中にあって、世人は閑雅を解し、情誼に厚く、任俠(きょう)に富み、高潔を尊んだ。河上代議士だったが、誰かが菓子箱を携えてなにか先生に頼みに行ったら、人を愚弄するな、と激怒され、その箱を自分の手で塀の外へほうり投げたという逸話もある。矜持(きょうじ)を持して清節を全うせんとする当時の高士の気概が窺えるというもの。

学生にも誇りがあった。彼等にとっては制服制帽も晴れがましいものだった。和服でも、着袴(こ)と着帽がきまり。ただ、僕の友人で、電車に乗ると制帽を袂に隠すのがいた。それは制帽を被っていると、紅毛人にものを訊かれる。『おれは会話が苦手で、人前で恥をかくから、その予防策だ』という。頭髪も五分刈りが大部分で、小生など、髪を伸ばし始めたのは二十四の春だった。当時、梵文学[7]の田中於菟弥副手(後、早大教授)が記念に櫛とチックを買ってくれた思い出がある。

およそ妙な髪が流行するのは民族が惨苦にあえぐ不幸な時代だ。元禄時代には元禄髷(まげ)が流行し、日露戦争後には二〇三高地という髪形がもてはやされた―とタカクラ・テルか誰かが書いていたが、昭和元禄の長髪の時代にも、倒産だ、自殺だと、ろくな事はない。五分刈りの昔ぞ恋しき。

 

(九)

就職だって、昔は楽だった。野心満々で、一旗挙げようという連中を別にすれば、格別、齷齪(あくせく)する者もいなかった。とりわけわが文学部などは、金はなくても成仏できる奴ばかりだから、卒業の時点で就職先が決まっていた者は四百人中、約半数足らずだったにもかかわらず、超のんびりモードが漂っていた。脛(すね)をかじりついでに、大学院の授業料だけ親に払わせ、あとは好きな先生の講義にでも出ていれば、結構生き甲斐も感じられた。中には三十の髭(ひげ)面を提げ、桜の太いステッキを振りながら、和服で大学の構内を闊歩しているのもいた。数歩後から奥さんがついてくる。聞いてみると、文学部のOBで、全部の先生の講義を残らず聴いたという奇人で、就職もせず、毎日大学に出入りするのが楽しみだという。

僕もあぶれ組の一人だった。桜の花も終わった四月下旬、上野へ散策を試み、帰途、不忍池の弁財天にポケットに残っていた銅貨を投げ、せいせいした気持で下宿へ帰ったら、主任教授から、副手に採用するという通知が届いた。

 

(十)

就職未定の同級生に佐藤孝(後、法大教授)がいた。彼はお茶の水の順天堂病院の佐藤一族の一員で、彼の兄さん達はそこの内科医長や眼科医長などをされていた。金持ちの御曹司で、好人物が取柄。親しくなって後には市ヶ谷の彼の家へはよく遊びに行き、一緒に外書などを読んだ。入学した当初、藤岡教授の音声学の講義に二人とも出ていた。十人前後の受講生の中で、彼は僕の横に座っていた。やにわに先生の耳もつんざけんばかりの大声。『コラッ、何だ君の態度は。それでも学問をしに来ているのか。不埒(らち)千万だ』。青天の霹靂(へきれき)[8]に驚いて横を見ると、佐藤が頬杖をついていた。入学以来、お互いにものは言わなかったが、この一件が端緒になって、うちとけるようになった。

縁は異なものとか。卒業の年に、構内の『山上御殿』で行われた定例の言語学会の席上で、二人がそれぞれ研究発表をすることになった。藤岡大人を始めとして、英語学の市河三喜、アイヌ語の金田一京助、琉球語の伊波普猷(ふゆう)、立教の英語主任岡倉由三郎等の諸先生及び関係学科の先輩約三十人が列席されていた。

佐藤は朝鮮音韻、小生はイランの方言詩について話した。講評にうつった時、岡倉先生がやおら壇上に歩を進められ、『両君の研究は、その背景に思想も、文化も、将(はた)又人間も不在だ。これは近頃の若い者の通弊である』といった趣旨のご意見を滔々(とうとう)一時間にもわたって述べられた。神妙な態度で先生の熱弁に傾聴したが、これにはほとほと参った。

岡倉先生は明治の先覚、岡倉天心先生の子息だとか聞き及んでいたが、今度調べてもらったら、天心の実弟だということが判明した。先生も覚三雅光の感化で、日本人の心といった問題に至深の関心を寄せておられたのではないかと考え、あの夜の手厳しい先生の叱責が、今更のごとく身に沁みる次第である。

 

(十一)

前置が長くなったが、昭和七年、夏も近い頃、佐藤君から就職決定の報が飛来した。内幸町の大阪ビルの四階とかで、是非一度来訪せよとのこと。黄土色の大阪ビルの階段を昇って行くと、『放送用語調査室』という板の看板が出ていた。ここはNHKの分室になっており、そこで東京語のアクセントを辞書に書き入れるのが彼の仕事だという。アクセント辞典のはしりだ。『君は一人で、室長兼小使かね』と冷やかしたら、この順天堂が不慣れな手つきで茶を入れながら、『いや、室長がいるんだ、誰だと思う。そら例の岡倉親父なんだよ』という。『なるほど、君は先生に叱られて得をしたね。教師は叱ると相手の学生が可愛くなるんだなあ』とお互いに微苦笑。

岡倉先生と言えば、昭和のごく初めにラジオの初等英語講座が始まった頃、最初の講師を務められた方で、当時『岡倉放送を最も熱心に受講したのは、中学生ではなくて、東都各大学の英語担任の教授連だった』と言われた程の名講義をされたと一般の評判だった。それ以来、この部屋で何度も先生にお会いすることができた。先生は大の将棋ファンで、いつ会っても将棋の話に花が咲いた。別れる時には、いつも先生は人差し指と中指で駒をつまむ手つきをされ、『八木さん、一つ機会を見て』と言われるのが常だった。ついにその機が熟し、不思議な一局ができるのだが、そのことは別に書きたいと思っている。

大阪ビルの向かい、省線ガード寄りに東拓ビル(戦後は第二大倉ビルと改称)があった。一階にコロムビアのレコード会社があり、同社の教育部に家永英吉君という長身の後輩がいた。彼が故西村院長の令嬢を奥さんにしていた関係もあり、またコロムビアへは所用もあったのでよく出入りした。地階に宝亭とか言う食堂があったが、昭和八年のある暑い日に、家永君は私を大学の一年先輩の高間芳雄という青年に紹介した。これが、悲劇の生涯を生きた作家の高見順さんだったのである。次週には別の題下で高間先輩の思い出を綴って見たい所存である。私が大川周明先生に初めて会ったのもこの東拓の二階の一室だったし、宣戦の詔勅のラジオ放送を聞いたのも、このビルのエレベーターの前であった。なつかしい内幸町の思い出は尽きないが、ひとまず、これでこの稿を結ぶ。

[1] 年をとっても丈夫で元気のいいさま。

[2] 驚いて目を見張るさま。

[3] 人を、ある地位や役職に推薦したり引き上げたりすること。

[4] なんめい。南方の大海のこと。

[5] はとう。大波のこと。

[6] ドイツ。

[7] インドのサンスクリット文学。

[8] 予想外のことが、突然起きること。