来航イギリス人一行が樺崎(かばざき)御揚場(おあがりば)に上陸して南御殿に至るパレードの通行路を、宇和島城下図に書き込んでみました。それはそこに展示してあります。
御揚場、樺崎砲台は住吉山の下、現在徳洲病院がある辺りです。そこに御番所があり、そこから行列は出発します。六艘堀という海堀があり、それに沿ってお城下へ向かいます。ドックヤードと船の繋留施設があり、藩の軍艦大鵬丸などの碇泊場になっていました。村田藏六―大村益次郎がここの造船所で蒸氣船を造ったのでしょうね。
一行は、舟大工町から恵比須町に抜けます。恵比須町には芝居小屋があった。昔の築地や北陽みたいな花街があったのだろうと思います。さらに高野川沿いに沿って並ぶ鉄砲倉の足軽町を通って、橋を渡りお城下の新町番所に出る。この辺に高野長英の隠れ家が今もある。横新町から竪新町経由袋町を左折して本町に出て、追手門(おたもん)まえ広場へ到達。元来の計画では、一行は追手門に入って堀の内側を通り、豊後橋を渡り御殿に行く予定であったが、結局、追手門の前までは行くけど堀の内には入らずに、堀の外を通り、明倫館の前を過ぎて御殿着となっています。城内に入らなかったのは幕府への政治的配慮をした可能性があります。
これには一つの伏線があるのです。慶応二年六月七日圖書と長﨑奉行能勢大隅守との間で、次のような談判が交わされていたのです。
圖「英人をお城に入れていいか?」
大「いや、それはちょっと困る」
圖「お江戸には強大な幕兵がいる。だのにハリスや兵隊を江戸城へ入れたではないか」
大「うむゝ・・・」
御殿絵図ですが、この門から入った。この門は普通、千鳥門と呼んだ門じゃないかと思いますが、この文書には高御門と書かれてあります。南御殿には広大な庭があったようです。大きく豪快な池と島がいっぱい造られ、橋の数が十二もあるのです。接待や宴会の合間にイギリス人が散歩したと思われます。パークスが庭を散歩したと書いています。印象に残ったのでしょう。南御殿の一部が現在の天赦園です。