二十五日は宗城公と宗徳公が公式訪問ではなくてお忍びで乗艦して、朝から晩まで七時間も船に居て…。その時に宗城公の当時の西洋現代史、ナポレオンに対する知識が―当時の江戸時代というのは、ナポレオンというのは物凄くよく知られていたんですね。江戸でもどこでもちょっとしたインテリ、特に宗城公の出である山口家のようなインテリ旗本は、西洋事情はよく知っているんですよ。「ウオータールーの戦争の話が出た」と言って、「イギリス人がびっくりした」と書いてあります。
面白いのは、奥方や姫君三十人が乗り込んでいることです。当時の日本人の習慣、考え方からすると、本当に異例ですね。薩摩ではこのようなことは勿論なかった。これが非常に喜ばれ、英国人が感心した。
「あの日本人が、外国人に対して攘夷をやる日本人が、家族的に付き合ってくれた。これは全く現代のヨーロッパ人と同じだという感覚を持った」
と、パークスは感激してイギリスの外務大臣・クラレンドンに、このことを何度も何度も絶賛して報告しています。この辺が、宇和島の開明性をあらわしていた、といえるでしょう。
それから、大砲の撃ち方、蒸気機関の燃やし方、それに医学教育までさせている。それらの連中をプリンセス・ロイヤル号に乗せて…。ちゃんと利用できることは利用している。一生懸命に近代化をはかっているのですね。
午後四時になったら大体そういうことが済んだから、図書と斎右衛門が乗組員を半分に分けて、和霊神社に連れて行ってお神楽を見せて、それからお籠り堂で宴会をやって、芸者かどうか分かりませんが三味線を弾かせ、女の子の踊りを見せた。「みんな非常に喜んだ。夜八時までやった」と書いてますね。当時は階級社会で一船員にまで配慮したというのは驚異的なことでした。
翌二十六日も一日中宗城・宗徳両公は船に乗り込んで、いろいろ見て回っています。午後からは和霊神社で残りの半数の乗組員にお神楽と宴会のサービスしています。ここらは、圖書さんの粋なはからいというわけ。
二十七日午前十時にサラミスがやって来ます。この時は号砲十五発。この時も萩森厳助が鰹節十連二台を出しています。鰹節の使い方は勿論日本の賄い方が向こうのコックに後で教えたと思いますけどね。
午後四時十五分にマリン(海兵隊)が来て、三の丸練兵場で練兵をやっています。この時、宇和島藩士も練兵をやり「非常にうまいことやって褒められた」と書いていますが、自画自賛ですが、まあ本当だったでしょう。