一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

4 続・日米秘話

(一)

戦前の二十五万㌦といえば莫大なもので、今日の日本の金でいくばくに相当するか、私には概略の見当さえも立たない。それを、『米国の学者には日本語が分からないから』と言ったり、『日本人の手でやらなければ恥だ』などと言って拒絶するのは、どうも合点がいかなかった。ヘンダーソン自身も、『米国の学者に日本語が分からないと強弁するなら、日本の学者にも英語は分からないといえるのではないか』と反論していたのである。

032国際文化振興会には何人かの腕利きのステノ・タイピストがいた。速記をとって、それをタイプで清書するのがその人たちの仕事である。その中に、大草さんという二世の人がいたが、座席が窓際に一ばん近かったせいか、猛烈なスピードでキーをたたく合間々々に席を起っては、窓から下を見る癖があった。『スティル、モア、アミュニションズ』(また弾薬だ)と怖わごわした口調で主任の加納に告げているのを再三聞いたことがある。私は日本が米国の申し出を拒否した理由もこれに尽きていると思った。

当時、板橋に兵器廠か、弾薬庫があり、軍需物資を芝浦から積み出すときに、KBSのあった馬場先門は板橋からのトラックの通路になっていた。

満州事変はすでに起こっており逐次、戦火は北支へと拡大する情勢下にあって、国内体制も時々刻々に変容していた。『東亜研究所』は既に発足しており、『大アジア主義』、『大東亜共栄圏』といった大旆(はい)[1]が高らかに掲げられる前夜である。私自身、その後半年も経たぬうちに、満鉄東亜経済調査局に入って、同僚達と一緒に、蒙古のゴビ砂漠に鉄道を敷設する計画を大まじめに話しあった記憶があるくらいだから、対米協調を拒絶したのも当然のことであったのであろう。それにしても二十五万㌦は惜しかった。

 

(二)

惜しかった話のついでに、もう二つ、千歳一遇の機会を逃した話を書き添えておきたい。

その一つ。昭和十一年。私がまだ副手をしていた頃、ナチスのユダヤ人排斥が激化するにつれ、ドイツの大学に席をおいていたユダヤ系の教授達が国外に亡命を企て、相当数の超弩(ど)級の学者が、日本の大学へも求職してきた。現に私が開封した言語学、宗教学関係の学者の手紙には当時のドイツの実情が伝えられているとともに、日本の学界のために生涯を献(ささ)げたいとの切々たる心情が吐露されていた。とくにタイプ用紙数枚にも及ぶ著書論文の目録は実に目を見張るものであった。

私はその手紙を、姉崎正治(潮風)先生の跡目をついだ故石橋智信博士に見せて、是非こうした学者たちを傭(やと)ってほしいと懇望した。

石橋先生にはとくに親しくして頂いていたし、先生はかつてドイツのセゲニュウスという旧約研究での世界的権威の下で七年も助手を務められた方なので、一番よく話が分かって頂けると思ったからだ。しかし、日独協定の手前もあって、話がまとまらなかったのみならず、その手紙も再び私の手に返らなかった。同じような嘆願書が、理工系の学部へも来たことを聞いたが、全部うやむやに葬られてしまった。これが大問題で、彼等の大部分を受け入れた米国では、彼等の学識を利用して、原爆の開発を進めたのではとの疑いを私はいまだに捨てきれない。

惜しかったもう一つの話。これは日米秘話ではないが、読者のご寛恕[2]を乞いたい。英国で『フロンティア』と言えば、印度・アフガン国境、いわゆる『西北国境』のことである。延々五百㍄にわたる両国の境界線は俗にデュランド・ラインと称せられ、佶屈峨々(きつくつがが)[3]たるこの山陵は有史以来難攻不落の自然の砦(とりで)であり、四万平方㍄に亘るこの国境地帯はいわゆるパタン族の郷土である。アフガン側に七百万、印度側に六百万が居住しているが、獰(どう)猛なことでは世界無比。まだかつていずれの政府にも帰順したことがない。歴山大王[4]の印度遠征(紀元前四世紀)の時にもこの部族の抵抗が烈しく、兵力を著しく損耗したので大王も帰途は海路によっている。この部族の歴史と現状については、ウイリアム・バートン卿の『印度西北国境』(一九三九年)に詳しい。英国が三回に亘って行った(三回目は一九一九年)アフガン戦没はこの部族の討伐を目的としたものだったが、三回とも完全に失敗。二回目には英国の官憲と家族二万人が神出鬼没の彼等の術策に陥り、三人だけ逃げ帰り、あとは全員血祭りにあげられたと言われている。

昭和十七年三月に日本軍はビルマの首都ラングーンを攻略したが、その余勢をかって、インパール作戦を企図した。このときパタン族は英国に対する積年の怨みから、はやくから日本に助力を申し出で、アフガニスタンの日本の在外公館を通じて、東部戦線と呼応して搦め手から印度攻略するから、ラジオ五千台、その他通信機材を供与してほしいと要請してきていた。(彼等は山中に秘密の鉄砲鍛冶をもち、銃は手製だが、射撃の名手で、兵器は要求しなかった)。しかし、日本の外交官がこれを私(ひそ)かに無視して了ったということを、外務省の書記生で、二年ほどアフガニスタンに駐在、日本人では最初にこのパタン族に接近した友人の小川亮作君(三十代で他界)に私が最後に会った時、彼の口からその話を聞いたし、また初代のカブール駐在公使だった北田正元先生からも聞いた。これは惜しいという程の話ではないかも知れないが、いずれにもせよ、日本人が政治と学問を混同したり、保身に汲々として国益を考えない例として生涯忘れえぬ教訓である。

 

(三)

閑話休題。ヘンダーソンと別れて後は、互いに戦雲に遮られて、消息が絶えた。私は昭和十九年九月に二度目の応召で丸亀から中支に連行されたが、二十一年の春に復員した。茅(ぼう)屋[5]は灰燼に委ねられており、桑滄(そうそう)の変[6]を目のあたりにして敗戦の哀愁が惻惻として胸中にひしめく中で、一切のものが空しく忘却の彼岸に飛び散ってしまった。

しかし日が経つにつれ、そぞろに既往のことが心に甦ってきた。ヘンダーソンのことも、時折は思い出し、コロンビアへ照会の手紙を書こうかと思ったことも再三だったが、今更あの話が復活する筈もなし、また私自身の対米感情も昔とはすっかり変わっていたのでそれはそれとして、ただある日、ある時の、一場の夢として心の奥にしまったまま、碌(ろく)々然[7]として、消光するのみであった。

しかし、人間の絆(きずな)というものは不可知なもので、ふとした奇縁で、昭和四十一年、当時すでに七十六歳のヘンダーソンが、彼の筆になる『俳句概説』という英語の著書を私に送ってきた。扉に『去りぬる年の思い出に、ハロルド・G・ヘンダーソン』と自署してあったのには驚いた。

 

(四)

026道後のさる旅館の屋号が黒々と書かれた破れ傘をかざし、おんぼろの自転車に乗った一人の外人が拙宅の前で停った。昭和四十年の六月は梅雨の頃である。どうもこの話は梅雨に縁がある。そして、梅雨が来ると、いつも迂性はこの話を思い出すのである。

誰かと思って下りて見ると、石手の高橋刀匠の弟子になっていたキース・オースチン君だった。オースチン君は子供の会話の先生で、前の年のクリスマスに拙宅に来たので、初対面ではなかった。

しばらく雑談をした後で、オースチン君は深刻な顔をして、『高橋先生は、もう君に教えることはなくなったから、あとは、先生の弟子の某氏が西条にいるから、そこへ行って習ってくれ、と言われるのですが、私はその気にはなれません。先生は刀に銘を彫ることにかけては天下無雙の名人ですが、これだけは、絶対に教えてもらえない。刻銘中は誰も部屋にはいれません。そこで、相州伝をついでいる長野の宮入堅一刀匠(昭三八・人間国宝に指定)の門に入って、初志を貫きたい所存です。ついては、八木先生に入門の依頼をかねて推薦の労をとって頂けたら』という。

早速硯を持って来て、彼の目の前で鄭重に入門を懇請する手紙を書いた。書き終わると、彼は、『ずい分速く書けるものですね。私など、英語の手紙を書くのに、何時間もかかるのです』という。『僕の父は僕より十倍も速かった。僕など、若い頃に受験勉強に浮身をやつし、手紙など習う間がなかった。英語の手紙だって、個人差がある。リーダーズ・ダイジェストの初代の日本代表だったフィッシァー先生などは、あっという間にタイプで手紙を書いてくれた。しかし、オースチン君、タイプの手紙は雅味がないね。気品とか風格の点では、日本語の手紙こそ、日本文化の精髄だと僕は考えている。君も刀工を志すくらいなら、手紙の書き方を勉強したまえ』。

手紙の話から次々と話題が拡がっていった。時折、『プロフェッサー』という言葉が出た。よく聞いてみると、それは彼の学問上のお師匠さんで、この方は、何人かの弟子を連れて来県し、僻陬(へきすう)[8]の山村を選んで居を構え、さながら、今様竹林の七賢人の生活を送りつつ、ひたすら日本研究に没頭して、そこに安住燕(えん)居[9]の明け暮れを楽しんでいるアイザクソン先生のことだった。

 

(五)

オースチン君にかつての和英辞書の話をしたら、『オーさん』も残念がっていた。それから、その話がアイザクソン先生に伝わったらしい。ところが、先生はニューヨーク時代に、一時、ヘンダーソンに師事したことがあり、先生を通じて、私が松山にいることをヘンダーソンが知ったのである。

オースチン君を介してアイザクソン先生と相識るに至り、さらに、先生を介して、昭和十二年以来、長のご無沙汰をしていたヘンダーソンに連絡がついた。世界は広いようでも狭いなとつくづく思った。

私はタイプ用紙に十枚もの、長い手紙をヘンダーソンに書いた。先生からも返事が来るし、前述した本も届いた。先生はコロンビア大学を退かれて、その頃は日本の俳句の研究をされていた。先生が一昨年の七月十一日にキャッキルズの別荘で他界される約一年前まで、先生と私との間にかわされた書簡は多数にのぼるが、ほとんど全部、日本語の俳句や英語の俳句に関するものだった。山頭火の『鉄鉢の中へも霰』を『ハイク・ウェスト』という俳誌に先生との共訳で発表したのも、今は亡き先生の俤(おもかげ)を偲ぶよすがである。先生の『俳句概説』は一九五八年に出版されて以来、十五万冊も売れたとのことで、今日でも、一日に五十部は捌けていると、いつか先生の手紙に書いてあった。

この本の第九章は『子規』となっており、二十八頁をこれにあてている。先生は子規の熱烈な礼賛者であった。アメリカは千年の業火を長崎と広島に投下し、天人共に許さざる罪悪を以て人類の歴史を汚した。ヘンダーソン先生はせめてもの償いとして、自ら余生を俳句研究を通じて日本文化の解明にゆだねようとされたのである。先生からの書簡には、いつもそうした敬虔(けん)の念があふれていた。

 

(六)

私は昭和四十二年の二月に日赤に入院し、約七十日間を病院で過ごした。無為に過ごす月日を惜しみ、医師の許可をえて、ベッドの上で、『日本研究家及び俳句解説者としてのヘンダーソン教授』という横文字の雑文を書き、商大論集に発表させてもらった。抜刷りを米国とカナダの俳句関係の人達に送った。多数の人から反響があったが、当のヘンダーソン先生は、前にも述べた通りの人柄だったので、いささか当惑されたようだったが、色々昔のことがなつかしいと喜んでくれた。

小論の中で、私は、『ウォーレス博士とヘンダーソンが、太平洋戦争の時に、奈良、京都の爆撃は絶対しないようにと大統領に進言した』とおぼろげな記憶を頼りに書いていたところ、一九六七年六月十九日付で先生から訂正の手紙が届き、爆撃の諫止[10]はウォーレスではなくて、ハーバード大学のラングドン・ウォーナー博士だったこと、また、『私のような微力なものの声をルーズベルトが聞く筈もない。ウォーナーがルーズベルト家の人を妻にしていた関係で、最も有力な進言者だったし、また、この件については、ウォーナーや私以外に、グル―大使をはじめ極めて多数の有識者が一体となって支援していたのです』と認(したた)められてあった。

皇太子殿下が訪米の際、グル―は勲一等にウォーナー博士とヘンダーソンは勲三等に叙せられたということも、その手紙に書いてあった。

しかし、ウォーナーは、周知のごとく、中国の敦煌(とんこう)の壁画を剥奪した大罪人で、功罪相半ばすると評価されている。戦争勃発当時の憎つけき駐日大使グル―が、奈良、京都の爆撃について懸命に努力したことが、ヘンダーソンの手紙で判明し、多少は腹の虫がおさまった次第である。

これも後で判ったことだが、ヘンダーソンはマックアーサーと共に終戦後日本に来ており、CIE[11]の文化部長をされていた。私は終戦後GHQにもCIEにも昔の知人がいたので、そこを訪れたのであるが、まさか先生が部長だったことは知らなかった。CIEの部長時代に、先生は日本の皇室のために非常な尽力をされたが、具体的にどういうことかについて、先生は生前絶対口外されなかった。先生の歿後[12]夫人によって公表されたが、日本では想像も及ばないほど米国では版権の問題がやかましいので、正式に許可をえた上で他日また読者の一粲(さん)に供する[13]こととしたい。重要な秘話を後廻しにすることをお許し頂き、この稿を終わる。

[1] 堂々たる旗印。

[2] かんじょ。心が広くて、思いやりのあること。

[3] 山が曲がりくねって険しくそびえ立っているさま。

[4] アレキサンダー大王。

[5] ぼうおく。みすぼらしい家。自分の家をへりくだっていう語。

[6] 世の中の移り変わりの激しさのこと。

[7] 大したこともできないこと。

[8] へんぴな土地。

[9] のんびりと気ままに暮らすこと。

[10] かんし。いさめて思い留まらせること。

[11] CIE:Civil Information & Educational Section 民間情報教育局(GHQ幕僚部)。

[12] ぼつご。死後。

[13] 自分の文章が他人に読まれるとき等に謙遜していう語。