一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅤ

 その五 神戸事件 二

  大坂裁判所での宇和島藩士

神戸事件とそれに続く堺事件、きびすを接して起きるパークス襲撃事件について述べる前に、慶応四年当初の上方での宇和島藩士について、知っておく必要がある。

大坂は江戸時代をとおして日本の商都だったが、幕末のこの時期には政治的、軍事的、なかんずく外交上のホットスポットとして、東京遷都までは日本の首都だった。

徳川慶喜が外国公使団を謁見して、優れた政治指導者としての自己を演出し、外国公使団に感銘をあたえたのが、慶応三年十二月十六日の大坂城だったが、その○ヶ月後には、この新将軍は血気にはやる幕臣に、自分が陣頭指揮を執って長匪薩賊と闘うと騙して、こっそり夜の闇に紛れ大坂城裏門を抜け出た。

その足で、筆頭老中板倉勝静、前京都守護職松平容保、京都所司代松平定敬らほんの身内だけをつれて(妾の新門辰五郎の娘もチャッカリ連れて帰ったという説もある)、海路江戸へ逃げ帰ってしまった。

乗船の開陽丸が摩軍艦から砲撃されたのだが、仏人砲兵の助けを借りて虎口を逃れたらしい。途中大嵐で四日もかかって江戸に帰り着いたが、慶喜は自己保全しか考えなかった。

大坂城には討ち死に覚悟の万に近い将士が残されていたのに、御大将が逃亡とあれば、ただ悲憤慷慨驚き呆れ、あげくの果ては戦意喪失して、悲惨な逃避行を南に向かったが、御三家の紀州藩は門を閉ざして、彼らを追い返したという。その背中を天皇軍の容赦ない砲火が襲った。

こうして、大坂、堺はあっけなく天皇軍の手に落ちた。幕府の大坂城は天皇政府の大坂鎮台となった。

程なく大坂鎮台は一般行政府として、大坂裁判所と名を改めた。裁判所と云っても裁判だけをする役所ではなく、太政官政府の下であらゆる行政を担当したが、宗城公の活躍はおもに外交面であった。

裁判所総督は醍醐忠順だったが、お公家さんはいわば王政復古のお飾り。実務はナンバー・ツウである補総督の公の双肩にかかっていた。

当然のことながら、公の手足となって働いたのは宇和島藩士だった。正確な数字は分からないが、慶応四年の上京には三百人の宇和島藩士が従ったと、初代日銀総裁となった松尾臣善(岡山出身の宇和島藩士)はのべている。   (右、宇和島藩家紋)

級藩士については、幸いなことに兵頭賢一翁が『宇和島吉田両藩史』に記録を残してくれた。

役職に就いた宇和島藩士筆頭は外国事務局判事井関齊右衛門(この時は横濱出張、判事は上級行政官、今の本省局長クラス)、次が権判事西園寺雪江、その下に御用掛助勤(御用掛は課長クラス、助勤だから課長補佐)として須藤但馬、桜田大助、都築荘蔵、宇都宮靭負、勘定役として松尾寅之助(臣善)、土肥真一郎(土居通夫)、菊池藤太郎、町田亘、書記役としては松本貞之助、その他鈴木震吉(初代宇和島町長)、粟野又平、森熊之助などがいたとある。とにかく大阪裁判所外国事務局の上級役人五十三人中の十一人が宇和島藩士ということになる。

宗城公は兵隊は出さぬと云ったのだが、東征軍に宇和島藩士も参加したようで、鈴村譲は上野戦争に出陣し、鉄砲玉を造っていたと書き残している。皆が散切りだったが、わが輩一人チョン髷を守ったと威張っている。この時ミカド政府は、各藩に万石に一人の徴兵義務を負わせたので、宇和島藩は三十人を出兵させている。鈴村はこの組に入っていたのかも知れない。