一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅥ

その六 神戸事件 三

    滝善三郎の切腹

                                                                                                                                                                                                                      

と言っても、事件がこれで解決したわけではない。外交団は、あくまでも発砲を命じた侍の首一つを要求してやまない。

むりもない。度重なる攘夷侍の奇襲に、外交官たちはおそれをなしていた。安政六年から元治元年の五年間で外国関係者の十三名が攘夷テロで暗殺されているのだ。

ましてや、尊皇攘夷を旗印としてきた倒幕ミカド政府は、罪のない徳川慶喜を討とうとしているではないか、そう考えていたのは幕府よりのロッシュ仏公使だけではなかった。パークスでさえそれを宗城公に指摘している。

「岩倉卿御諭解」と言う一片の諭告書で詰め腹を切らされたのは、日置家老の平士滝善三郎であった。岡山藩は因果を含めて、滝を馬廻役に格上げし、新知の百石取りとした。

外交団と直接交渉に当たった五代才助、寺島陶蔵、伊藤俊輔などにとって、太政官の議定でありながら外交事務副総督、大阪裁判所補としてほとんど大阪に在駐している宗城公が頼みの綱だった。彼らは瀧の助命をつよく公に要請した。

有栖川宮の東征軍進発を目の前にして、外国軍を敵にまわす危険は避けなければならず、さりとて相手側に死者はいないのに滝の首を差しだす不条理にも納得がいかない、ジレンマに公は陥った。

滝助命に奔走していた英領事代理のラウダーが、「フランスの博覧会場でロシア皇帝に発砲した犯人が死罪を免れた最近の事例」を公の耳に入れた。

そんな公の意見や五代、伊藤らの「百法及弁論何分助命之儀各国公使へ會」した結果、公使連中が「二時間密議」することになった。

その結果は、パークスの取りなしにもかかわらず、ロッシュの強硬意見が会議をリードして、四対二の大差で、助命は「終に不承知」と決した。パークスは外交団の少数派だったのだ。

東久世が投げ出した後始末を引きうけた宗城公は、あらためて岡山藩の暴挙に憤慨し、かつ瀧の処刑には同情したのだが、公式文書では次のように書かざるを得ない。

 

今般備前家来無故外国公使等并其人民を襲ひ候段 於朝廷新政之砌旁不行届之義拙者

より御詫可申入且此以後双方より信義を守相交候ニ於而は右等妄動之所為無之様列藩

へ急度申渡置候ニ付以来此等之事総而朝廷ニ而受合可申此度之義如別紙日置帯刀謹慎

申付瀧善三郎割腹申付候段各国公使へ可申入旨蒙 勅令候以上

二月九日                    宇和島少将

六カ国公使

 

こうして、九日の夜、西宮の永福寺で瀧は切腹する。

サトウやミットフォードはじめ各国外公団はみな、その従容とした死の作法に感動した。

宗城公はその日の日記に、

ひとすしに思ひきりても瀧のいとの

千筋ももすしそふなみた哉

と記した。