一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

宇和島歴史紀行 近藤俊文

2016年08月16日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

東寺別当覚宝の見方

じゃあ幕府はどう見ていたのか。これは中々分かりませんね。要するに幕府は、宇和島藩は危険な藩だと思って見ているわけ。だって長州というのは、この時の藩主の宗徳公の奥様が出たところですからね、長州藩とは宇和島藩は仲がよい。

2016年08月09日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

土佐本藩は・・・

土佐本藩はどうだったかと言いますと、プリンセス・ロイアルは素通りして横浜に帰っています。

「土佐は今回来てくれと言わんかったから、素通りしたが、そのうち行くだろう」ということで、ジョージ・キングが土佐本藩に挨拶状を出したらしいですね。

2016年08月03日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

土佐藩はどう見たか、まず宿毛藩

面白いエピソードですが、高知の場合どうだったか。

高知で言うと、まず宿毛藩ですが、サーペントが七月二日に宇和島を出て、その足で宿毛に寄って測量をするんです。

2016年07月27日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

薩藩五代才助の味方

当の薩摩はどう見ているかということですが、そもそも間を取りもったと思われる五代才助が、戦争が始まったすぐ後の慶応元年(一八六五)七月二日に手紙を松根図書に出している。そこに展示してあります。

2016年07月20日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

英艦渡来の宗城公直筆文書

宗城公がなぜイギリス艦隊を宇和島に呼んできたのか。
今まで私共が他から聞いているのは、「長州征伐にやりたくなかったから呼んだのだ」ということです。たしかに、それも理由の一つです。撤兵によって経費を節約する―これが大きな理由かと思われます。 

2016年07月11日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

知られていないアレクサンダー・フォン・シーボルト

明治三年(一八七〇)、鉄道借款について大隈重信・伊藤俊輔は元英国外交官だったネルソン・レイの詐欺事件に引っかかる。彼らの上司である伊達大蔵卿が最終責任者であります。

2016年06月30日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

宗城公の洋学ファミリー

いわゆる宗城公の洋学ファミリーというのがあった。最初は高野長英ですね。それから村田藏六(大村益次郎)、二宮敬作、敬作の次男の二宮逸二と甥の二宮篤四郎―この逸二は優秀で蔵六の教育を受けていた。

2016年06月23日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

ウイリアム・ウイリス、大村益次郎、高木兼寛

  ウイリアムス文書ウイリアム・ウイリスという医者ですが、『幕末維新を駆け抜けたイギリス人医師』という立派な本があります。余り宇和島の人はこの人のことを知りませんが、結構宇和島とは関係があるのです。

2016年06月13日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

伊達家の史料上の英軍艦

慶応二年六月、やってきたのは三隻の巨大軍艦
プリンセス・ロイアル号は長さが七十四メートル、幅が十八メートル。パークスが乗ってきたサラミス号は長さが六十八メートルと余り変わらないが、幅は八・二メートルです。

2016年05月13日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

松根圖書の機敏で深謀遠慮にとんだ行動

パークス・圖書の行動はすばやかった
さて、慶応二年(一八六六)に戻りまして、五月十三日に江戸で「江戸協約」を結んだパークスは、その足で長崎に来る。六月四日においねさんが、「松根図書がたまたま〈天保録という名の蒸気船〉を買いに行っておったから長崎に居た」というのは半分は嘘で、おそらく、前もって図書が五代と元治元年の年末に会っていますから、その辺でおそらく話が煮詰まっていたのでしょう。