一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅦ

その七 堺事件 一

    一難去ってまた一難

瀧善三郎の切腹から八日しか過ぎていないのに、またまた大災難が政府を襲った。

事件は、神戸の一件をなんとか乗り切った宗城公ら外国事務局首脳が、二月十五日のディナーに仏、英、蘭、普、伊の公使らを招いて和解懇親の祝宴を張っていた最中に起きた。

ちょっと脇道にそれ、当時の外交団の力関係を見ておく。

瀧の一命を救おうとする五代才助、伊藤俊輔、寺島陶蔵などの懸命の努力に立ちはだかったのは、仏公使レオン・ロッシュが主導する強硬派、アメリカ、プロシア、イタリアだった。穏便論のパークスに組したのはオランダ一国。この時点ではまだ、前者は佐幕、後者は新政府派と見ることも可能だ。

戊辰戦争の緒戦に勝ってはいるが、外交関係での出遅れはまぎれもなかった。

新政権は上から下まで攘夷を旗印に幕府を攻撃してきた尊攘派が握った権力ではないか。外交団は新政府に猜疑の目を向けていた。天皇政府を主導する薩長土の革命派が開国論に傾いているのを理解していたのは英と蘭二国だけだった。

この劣勢を挽回するために、政府は苦慮していた。

三條・岩倉の両副総裁、大久保利通・木戸孝允らの首脳は、天皇の各国公使謁見と大阪遷都が避けられないと考えていたのも、こうした事情からだった。

遷都は、眉を剃り、紅おしろいで化粧し、お歯黒を塗った十六歳の天皇を頑迷固陋な公卿、官女など宮廷勢力から切り離して、文武に秀でた近代的帝王に育てるためだった。と同時に、下の参与たちが実権を握っていることを明白にする政治システムの再構築が急がれていた。

宗城公という人は先見の明がある。すでに一年前の四月、アーネスト・サトーに、いずれは外交団が京都を訪問することになるだろうと予言していた。今、その時が来たのだ。

ところが、そんな計画も相次ぐ攘夷事件で吹っ飛んでしまうのだった。

話はもどって二月十五日、公使団との和親の宴がたけなわになった頃、恐るべき一報がもたらせられた。

ー堺湊でフランス兵が一人土佐兵に殺されたー

機嫌良く談笑していたロッシュは一瞬愕然として顔を強ばらせたが、

「お互いに兵士を鎮撫させれば、格別心配しなくても落ち着くでしょう」

と意外に冷静で、懇親会も友好気分の中で散会となった。

ところが事の真相が明らかになるにつれて、一大外交事件に発展していく。

次いで、殺害されたのは三人のフランス水兵だとする報告が届いて、ひとしお緊張が高まったが、最終的には被害者の数は十一人に膨れあがった。それに、ほとんどなんの理由もなく堺守備の土佐藩兵に攻撃されていたことも判明した。

前例の無い最大規模の攘夷事件となった。

猛り狂った佐幕派ロッシュは行方不明の七遺骸をすべて十六日朝八時までに乗艦ヴェニュス号へ渡すべし、さもなくば報復処置に出ると文書で通告してきた。

残された時間は深夜の八時間だ。

夜中の十二時に役所へ直行した公は、宇和島藩の宇都宮靭負を堺へ遣わせ、情報収集と事態の処理に当たらせた。

東久世外国事務局補は外国事務局判事五代才助をつれてあたふたと堺へ向かった。