一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

宇和島歴史紀行 近藤俊文

2016年12月19日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるⅠ

 その一 宗城公ミカド政府の議定となる

慶応三年二月、西郷隆盛が薩摩国主島津久光の密書を携えて宇和島にきた。

2016年11月15日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

宗城ファミリーは皆英国派

もう一つあります。これは是非付け加えておきたい。
これは私の考えですけども、明治以後、宇和島の指導的立場に立たれた人々、というのはまず、児島惟謙から始まって、末広鉄腸、土居通夫、穂積陳重、穂積重遠、数年前に宇和島に来ていただいた穂積重行先生の系譜です。

2016年11月07日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

その後のパークス

金子仁氏が、五年前になりますが、パークスの墓を調べにロンドンへ行かれました。その結果は、直系子孫はオーストラリアに移住したとのことで、消息が分からなかったのです。

2016年10月26日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

村松恒一郎が伝えたかったこと

さて、最初に出た村松恒一郎です。彼はこういう結論をも出していたのです。村松が書いたかどうか分かりませんが、編集責任者となっているこの『鶴鳴余韻』には・・・

2016年10月17日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

美々しい行列はどこを練ったか

来航イギリス人一行が樺崎(かばざき)御揚場(おあがりば)に上陸して南御殿に至るパレードの通行路を、宇和島城下図に書き込んでみました。それはそこに展示してあります。

2016年10月05日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

いよいよ正式訪問行事が始まった

二十八日が正式訪問で、大砲をゴンゴンお互いに撃ち合いして…。午後にパレードをやってます。

総勢百人を超えてますよ。先頭に足軽の兵隊がライフルー上等の鉄砲ですーを担いで並んで行進、その先には乗馬で物頭入江佐吉が立ち、ライフル兵隊の後に松根図書の息子の内藏―のちの権六ですーが、騎乗で英士官の馬列の前を行く。

2016年09月26日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

サラミス入港まで

二十五日は宗城公と宗徳公が公式訪問ではなくてお忍びで乗艦して、朝から晩まで七時間も船に居て…。その時に宗城公の当時の西洋現代史、ナポレオンに対する知識が―当時の江戸時代というのは、ナポレオンというのは物凄くよく知られていたんですね。

2016年09月14日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

サーペント、プリンス・ロイヤルが来る

二十三日午後一時に測量船のサーペント号が恵比須崎の沖にしばらく繋留したあと、間もなく出帆。それに水先案内をつけます。水先案内は日振島の沖で待機する。それと同時に日振島の山に島の人が登って二十四時間見張る態勢をとっている。

2016年09月05日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

應接計画をたてた人々、その内容

さて、いよいよ宇和島来航の本番です。

じゃあ宇和島藩はどのようにエゲレス人を迎えたか。宇和島の人なんか外人を見たことなんかないわけですよ。

2016年08月22日

宇和島歴史紀行 近藤俊文

アーネスト・サトウの『英国 策論』

さっき一藩割拠とか公議政体論について話しましたが、公議政体つまり一種の議会政治ですね、これには英通訳外交官アーネスト・サトウが絡みます。パークスとアーネスト・サトウはちょっと仲が悪いというか、パークスは、アーネスト・サトウがやや危険だと思っていた。