一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

寒来暑往 八木亀太郎

2017年01月05日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁

大学二年まで、私は管瀬芳英大和尚の創設になる小石川久堅町の真宗派の学寮に寄宿し、朝夕、正信偈(しょうしんげ)[5]を誦唱(すしょう)[6]した。当時の寮長は青原慶也先生でこの方は本願寺派の学校である千代田女専の教授をされていたが、もともとは広島のあるお寺の住職である。この青原先生に正信偈を習った。この経は『帰命無量寿如来』という言葉で始まるが、それは南無阿弥陀仏の漢訳である。

2016年09月30日

寒来暑往 八木亀太郎

5 内幸町物語

人仮りに、『盛年重ねて来たり、一日、東海の都を再訪し得ば、汝何処の辺に赴くや』と問うとせば、私は躊躇することなく内幸町と答えるであろう。
旧市電の日比谷交叉点と田村町との間に内幸町という電停があった。日比谷公会堂のすぐ側の四つ辻のところである。

2016年09月20日

寒来暑往 八木亀太郎

4 続・日米秘話

 戦前の二十五万㌦といえば莫大なもので、今日の日本の金でいくばくに相当するか、私には概略の見当さえも立たない。それを、『米国の学者には日本語が分からないから』と言ったり、『日本人の手でやらなければ恥だ』などと言って拒絶するのは、どうも合点がいかなかった。

2016年09月02日

寒来暑往 八木亀太郎

3 日米秘話

 大塚籠町の六義園の筋向かいに、理研と並んで、『東洋文庫』があった。ここはかつてのモリソン文庫などを土台にして逐次拡充された東洋学関係資料の宝庫で、世界でも有数の図書館である。

2016年09月01日

寒来暑往 八木亀太郎

2 金助町奇談

 私の最初の上京は昭和元年、高校一年の夏で、約一ヵ月間叔父の家に逗留した。大学に入学したのが三年後の昭和四年だったのは前にも書いた。そこで、今少しく有体(ありてい)[1]に、当時の時代の様相を述べておきたい。

2016年08月16日

寒来暑往 八木亀太郎

はじめに

『我思うが故に我あり』とは西哲の言葉であるが、自分の場合には、我思わざるが故に、いまだ生につながる、とも言えよう。

2016年07月27日

寒来暑往 八木亀太郎

八木亀太郎先生プロフィール

八木亀太郎先生の名随筆集『寒来暑往』を連載致します。
お楽しみください。