一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

寒来暑往 八木亀太郎

2017年04月21日

寒来暑往 八木亀太郎

7  印度青年キショール君 (一)

ボースさんに私が初めて会ったのは、彼が『お茶の水アパート』に居住していた頃で、私もまだ学生だった。

2017年02月28日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁 (十)

これはある時、こうちゃんからも聞いた話だが、高間さん(こうちゃんはいつもそう呼んでいた)の学生時代、学資も生活費も岡田翁が悉皆(しっかい)面倒を見られ、物心両面で高間さんを援助されたのである。こうちゃんにとっても高間さんはいい兄貴分だったらしい。

2017年02月21日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁 (九)

翁は苦労人だった。若いころ、栃木から東京に出られ、夫婦で品川に、間口二間くらいの小店を出され、軒先に釘を打って、針金を幾束か吊るして売っておられたとのことで、赤貧洗うがごとき艱(かん)苦に満ちた生活だった

2017年02月16日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁 (八)

謝礼をいただくときにも、必ず半紙にお菓子を少し包み、それに月謝袋を添え、お盆にのせて女中が鄭重に差出した。翁自身が私に手渡されなかったのも翁の心遣いだった。

2017年02月09日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁   (七)

バートランド・ラッセルの『科学概論』という分厚い本を読んだが、この本によって私は大いに啓蒙され、爾来、ラッセルに深い関心を寄せるようになった。一九六七年版のラッセルの自叙伝を先年、若いころの岡田家のことを想起しつつ、心をときめかしながら読んだ。

2017年02月02日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁   (六)

鈴木さんという岡田翁の青年秘書が二人を迎えに来た。最初はたしか夕方に有楽町から省線に乗り、高間さんと三人で代々木の岡田邸に赴いた。

 開けっ放しの電車の窓から時折、涼風が吹きつけ、吊り革をもって私の横に立っていたワイシャツ姿の高間さんの赤い無地のネクタイが風にゆらいでいた。

2017年01月30日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁 (五)

『僕は最近、何だかんだとうるさいから、有楽町の蚕糸会館という新しいビルの一室を借り切って、書いてるんですよ。一日二円五十銭だが、落ちついていいですよ。どこにいるか誰も知らないから、人も来ないし』と言われていたのも、ほんの昨日のようだが、あれから四十年の歳月が流れている。

2017年01月27日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁 (四)

どちらかと云えば剽軽(ひょうきん)で茶目っ気の家永君とは好対照だったが、なかなかの人柄で、食堂での二人はよく揆(ばち)が合って楽しそうだった。西条八十の話にはさして興味もないらしく『さあねえ』と気のない返事がかえってきた。

2017年01月27日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁  (三)

『うん、そう言われればね』と生半可な返事をすると、すかさず、家永が、『うちの教育部の高間さんです』と紹介して、自分のジョッキを飲み乾した。高間さんと名刺を交換したとき、家永が注釈を加え、『高間芳雄というのは本名で、八木さんも少し知ってると思うんだけど、高見順というのがペンネームですよ。コロムビアは給料が安いから、小説でひと儲け‥‥』。

2017年01月20日

寒来暑往 八木亀太郎

6南無 岡田顕三翁 (二)

昭和の八、九年頃、私が東拓ビルのコロムビアへ出入りしたことは前述の通りである。満州事変の前後、コロムビアでは、その時代のアジア主義の擡頭に呼応して、外国語のレコード(当時はまだテープがなかった)の複製を企画し、当時まだ日本では入手し難かったリンガフォーンの英、独、仏版の解説付のコロムビア盤を出すことにし、蒙古語など、リンガフォーンにないものは、コロムビアが独自のオリジナルを作製することになった。