一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

英艦渡来の宗城公直筆文書

宗城公の深謀遠慮撤兵による経費の節約

宗城公がなぜイギリス艦隊を宇和島に呼んできたのか。

今まで私共が他から聞いているのは、「長州征伐にやりたくなかったから呼んだのだ」ということです。たしかに、それも理由の一つです。撤兵によって経費を節約する―これが大きな理由かと思われます。

しかし、本当はもっと大きな理由があったようです。それは、この頃宗城公は、「幕府はいづれ潰れるだろう」と思っている。文書からみたら、安政元年(一八五四)の宗城公の書いたもの中には「幕府は十年足らずしてつぶれる」と書いてあります。つまりそういう認識を持っている。嘉永末年に、もうそういった認識を持っている。四賢公など外様の大名はみんな持っていたのじゃないですかね。「徳川はもうコリャあかんぞ」と思っていたんですね。

ではどうなるかというとは、「藩がつぶれる」とは考えないわけですよ、お殿様だから。 「各藩が戦国時代の群雄割拠みたいに、一藩割拠になるだろう」と思っているのですね。ただ戦国時代と違うのは、一藩割拠で戦争し合うのではなくて、お殿様の藩の議事政体ですね。「選挙をやって議会をつくって合議」をしようと考えていたんですね、公議政体論です。多分島津久光も。四賢侯みんなそう考えていた。

一藩割拠の経済的自立・近代化

割拠の問題と、その為には藩の経済的自立と近代化、つまり一藩の富国強兵が必要なので、もうそれに必死になっているのですね宇和島藩は。今から見ればたいしたことは出来てないわけですけど…。

伊達家文章

参考文献:歴史のうわじま 第六号 「英艦渡来・・・」

ここに出展の戊文書は、水野さんが伊達家文書から発見するまで全く知られてなかった文書です。

「英艦ご城下渡来尽くすをもって御出勢渡海とも御見合わせ…」つまり、英艦が三隻ともちゃんと揃ったら、その時点でご出勢 ―つまり長州征伐ですね。出勢もしない。「渡海」というのは、三机まで海を渡ってということで、その三机で陣地を置いて―そこに幕府から軍監・軍目付が来て頑張っている。宇和島藩へは竹尾戸一郎という目付が二回来ています。

「英艦が来たらもうやめる」。そのことは「お伺いも差し出され候義につき…」と敬語を使っていますね。指し出され、つまり自分(宗城公)は隠居で、殿様の宗徳公がやっているから敬語を使っているのです。宇和島藩は結局四回へ意見書を出しています、文句をつけて。最初から長州へ兵を出す気はなかったのです。

四月には大坂の板倉閣老に、「こんな戦争はダメだ」と…。六月に入ったら、長州征伐の本営が広島にありましたから、広島に西園寺公成が行って(松根圖書が同行したと考えられます)「こんな戦争はできん」と…。そしたら「宇和島はどうなっている」と言って目付が広島から宇和島まで来る。その広島本営からの目付が、西園寺が江戸の昌平黌にいた時の学友だった。この人を宇和島に呼んで飲まして食わして…。それで「何のために来たのか分からん」「それで帰した」と記録に書いてあります。そんなことだったんですね。暢気なものでした。

三回目は、松山に対して、「松山藩と宇和島藩は、最初は六月五日に攻め込む」という命令があったから、「命令はやりませんぜ、うちはもうやりませんぜ」いうことは松山にも言ってあるわけです。

戦争が始まった後は、松山藩は長州の罠にかかって、「戦争犯罪をやった」といって盛んにやられるわけです。それで宇和島藩は

「松山藩は戦争犯罪をやったではないか、うちはそんなことはできません。藩士を塵や芥のごとく扱う戦はできん」と言うて書いてるんですね。

とにかく戦争反対の書面を四回も幕府に出していますから、許可があろうがなかろうが、英艦が揃ったら、御家人は御城下に交代させ、少たりといえども兵食、軍事費を減らすことが大切だ。また人夫とか百姓とか漁師を雇っているわけです。随分金もかかるわけです。船も徴発しています。それらも「全部やめてしまえ」と細かい指示を書いている。宗城公はなかなか細かい。