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宗城公の洋学ファミリー

明治二年五月一日開設された舎密局関係者

洋学ファミリー

                      宗城公の洋学ファミリー

いわゆる宗城公の洋学ファミリーというのがあった。最初は高野長英ですね。それから村田藏六(大村益次郎)、二宮敬作、敬作の次男の二宮逸二と甥の二宮篤四郎―この逸二は優秀で蔵六の教育を受けていた。篤四郎ももファミリーの一員として活躍していたが、天保録購入にからんで殺されたと言われています。児島惟謙がこれを惜しんで立派な碑を長崎に建てていますね。 おいねさん、おいねさんの恋人だったと言われる大野昌三郎、おいねの弟のアレク宗城公という人は二つの特性があります。すごい「情報魔」。とに角情報をたくさん集めるということ。もう一つは「人たらし」。人物を見てエエという者があったらパッパッと取ってしまう。また、相手をそらさず、相手を納得させる言語能力があったみたいですね、この人は。

 

西園寺公成、土井通夫、宇都宮    

            西園寺公成、土井通夫、宇都宮靭負 

慶応二年の五月に、第三高等学校の前進といわれる舎密局―阪大医学部の前身である大阪医学校というのが開校したのです。その時にこれを取り仕切ったのが、宇和島藩の西園寺公成。土居通夫、宇都宮靭負―この人は宇和島藩士としては虎之間で、優秀な男です。これが緒方洪庵の息子、これはボードインというオランダの医者、そして、ハラタマというオランダの化学者です

 

この写真は芝先生―阪大の名誉教授―がオランダで発見してきて私にくれたものです。

彼らはこの人物をハラタマだと言ってますが、どう見ても軍服を着ているし、多分この時のオランダ公使のポルスブルックじゃないかと思います。

三瀬周三 と おたか

        三瀬周三 と おたか

アレクサンダー・フォン・シーボルトが日本に来たのを、おいねが引き取るわけですね、弟ですから。

おいねが長崎の銅座町という所で開業していますが、ここは宇和島藩の連絡所のような感じだったみたいですね。だから初めてアーネスト・サトウが長崎に行って、宇和島藩に連絡をつけようと思ったときは、まず銅座町のおいねの所に行っているみたいです。おそらく鳴滝のシーボルトがいた塾もおいねが管理してたんじゃないでしょうかね。この辺のところは長崎で調べないと分かりませんが、多分そうだと思います。

三瀬周三が日本語をアレックスに教えました。それでイギリスの通訳として大活躍をするのです。

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