一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

東寺別当覚宝の見方

幕府はどう見ていたか

じゃあ幕府はどう見ていたのか。これは中々分かりませんね。要するに幕府は、宇和島藩は危険な藩だと思って見ているわけ。だって長州というのは、この時の藩主の宗徳公の奥様が出たところですからね、長州藩とは宇和島藩は仲がよい。佐賀藩とも親戚だし、今、宗城公は薩摩とはずっと切れぬ仲になっている。だから宇和島にイギリス軍が行くと言ったら長崎奉行の能勢は顔色を変えた―というほどです。どういうふうに見ていたか、分からんけど…。

幕府の内状についての面白い手紙がここにあります。

文章

宗城公宛覺寶書翰      慶応二年七月六日 (東寺観智院別当)

東寺に行く道の左に観智院―東寺の別当の寺院―があります。ここには宇和島出身の日本画家・濱田泰介画伯の襖絵があります。

そこに手紙の本物が展示されていますけど、幕府が英艦宇和島来航をどう見ていたかについて、観智院の院主で東寺別当の覚宝が報告しています。かいつまんで言いますと

「宇和島藩は幕府に三通も四通も長州征伐について小言を言うとるじゃないか。だから幕府としては、おそらく宇和島は兵隊を出さんだろうと。しかし、それじゃ幕府の面子が立たん。特に外様の藩に対して示しがつかん。だからイギリスの軍艦をわざわざ宇和島へ派遣して、それを理由に、宇和島にはイギリスが行ったから長州征伐は免除してやろうという口実にするために、幕府がわざわざやらせたんだ、という噂が流れている…」

ということを報告していますね。

情報の中心にいる覚宝ですら、こんな解釈をしているのだから「五代や図書や宗城公が計画していることの真相は極秘に守られていた」ということがよく分かります。

この覚宝というお坊さんは後に天台座主になるくらい偉い僧侶でしたが、宗城公にたくさんの書翰を出しています。彼は情報(インフォ)提供者(ーマント)だったのですね。宗城公がどのようにして覚宝さんを手なずけたのか、よく判りません。