一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

アーネスト・サトウの『英国 策論』

一藩割拠とサトウの「英国策論」

さっき一藩割拠とか公議政体論について話しましたが、公議政体つまり一種の議会政治ですね、これには英通訳外交官アーネスト・サトウが絡みます。パークスとアーネスト・サトウはちょっと仲が悪いというか、パークスは、アーネスト・サトウがやや危険だと思っていた。ずっとそうです。だから二人の間柄はかならずしもしっくりは行っていなかった。パークスは公使でサトウの上司ですから、サトウが薩摩に近すぎると警戒する、サトウはそれが分かるのでパークスとは何だか一線を引いている感じ。しかし、パークスはサトウの日本語能力と情報収集能力を評価している、両者はそういう関係でした。

クラレンドン外相の方針が「内政に干渉するな」ということで、もし余りやり過ぎたらオールコックみたいに首を切られる可能性がある。だからアーネスト・サトウがやり過ぎないように、どっちかいうと押さえとった気味だったんですね。

また、パークスはね、徳川慶喜に会って、慶喜が非常に優れた人物だと、一目で見抜くのですよ。まさに英雄英雄を知る、というわけでした。

英国策論

アーネスト・サトウの英字新聞論文が本になり、海賊版が多く出たという

その頃、『英国 策論』という本が出まわっていました。そのネットコピーはそこに展示してあります。

「英国士官ストウ著」となってますが、サトウが横濱の英字新聞「ニホン・タイムス」に投稿した記事が種本で世間に広まったものです。内容は、将軍は日本の主権者ではなく、天皇が主権者だ。したがって、外国との諸条約は改めて天皇と諸大名との間に結びなおす必要がある。政治は諸侯の合議制体がのぞましい。という非常に薩摩藩寄りのものでした。

先に述べた「割拠体制で、各藩の一種の合議制でやる」というのと大体同じ路線です。藩と殿様のヘゲモニー(支配権)を認めた上で、公議=議会制度をやろう、というわけです。

宗城公は勿論『英国 策論』を読んでいて、アーネスト・サトウが慶応二年の年末に宇和島に来た時、公が「お前さんの本を読んだぞ」と言ったと、サトウは『一外交官の見た明治維新』に書いています。

慶応三年の年末になって、慶応二年のこの会話を、宗城公はわざわざ西園寺雪江と須藤但馬に確認させているのです。それだけではありません。慶応三年四月に宗城公が四侯会議で上洛した時にも、すぐ翌日にアーネスト・サトウが来るのですが、その時も同様な話をしたということを、西園寺・須藤に確認させていますね。サトウの策論に賛成しているぞ、と言うことをあらためて西園寺・須藤を通じて言わせているのです。サトウを通じて、宇和島藩の意思を薩藩へ伝達しようとしたのでしょうか。

西園寺と須藤の京情報告書は、そこに実物が展示してあります。

『英国 策論』という本はなかなか手に入らなかったのですが、今はインターネットで簡単に手に入る。そこに置いてあります。