一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

6南無 岡田顕三翁   (六)

(六)

昭和九年の夏だった。家永君から電話があり、高間さんが八木さんに頼みたいことがあるという。また東拓の地階で高間先輩に会った。

『僕が世話になった岡田顕三という人の子息が専門学校にはいったので、独乙語の家庭教師を探せというんですが、家永君の推薦もあるので、八木さんに行ってもらいたいんだけど』ということだった。週一回ということでお引受けした。

鈴木さんという岡田翁の青年秘書が二人を迎えに来た。最初はたしか夕方に有楽町から省線に乗り、高間さんと三人で代々木の岡田邸に赴いた。

開けっ放しの電車の窓から時折、涼風が吹きつけ、吊り革をもって私の横に立っていたワイシャツ姿の高間さんの赤い無地のネクタイが風にゆらいでいた。濃目の赤いネクタイと真っ白なワイシャツ、色の白い面長のプロフィル、房々とした頭髪━━がすばらしく印象的だった。

岡田邸の門をくぐって、鋪きつめられた小石をざくざく踏みながら、玄関に着くと、岡田翁夫妻が上り口の左右に正座して待っておられた。我われに対して、いとも鄭重に両手をついて深々と頭を下げるご夫妻の姿に私はすっかり打たれた。

岡田翁は一見、六十の坂を少し越された小づくりのかただったが、奥さんは大柄で、よく肥っておられた。鈴木秘書に案内されて高間さんと僕とは応接間に通され、やがてそこへ、顕三翁は浤ちゃん(本名浤一)という令息を従えてはいって来られた。挨拶やら紹介がすむと、一しきり話がはずんだ。高間先輩が日本一の大先生のようにいってユーモラスな紹介をされたのには参った。翁は訥々として、しかも慇懃に今後よろしく頼むという趣旨のことを述べられた。訥々として、というのは単なる修飾ではない。とちりながら話される岡田翁の言辞のはしばしには本当に誠実さがあふれ、私は翁の人柄に少なからず感佩(かんぱい)した。当時、大藤倉の品川工場長だった翁であるが、私の予想とは凡そ程遠い、親しみのもてる方で、東京の財界にも、こんな方がいたのかと驚いてしまった。

松山ではあまり見かけなかった形をした素焼の蚊やりから静かに煙が這い出ていた暑苦しい夏の宵だった。早速第一日目のレッスンをすることにしたが、電車の中で、高間さんが、『一時間もやればいいよ』と言っていたのに、済んでみたら二時間も経過していた。別室で私の終わるのを待っていてくれた高見順さんは『ずい分長いことやったんだね』とにこにこしながら、私に声をかけた。高見さんと岡田さんの家族の人とはよほど親しいらしく、なにか話でもあったのか、別に待ちくたびれた様子もなかった。