一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

2 金助町奇談

(一)

私の最初の上京は昭和元年、高校一年の夏で、約一ヵ月間叔父の家に逗留した。大学に入学したのが三年後の昭和四年だったのは前にも書いた。そこで、今少しく有体(ありてい)[1]に、当時の時代の様相を述べておきたい。昭和初期と言えば、『東京音頭』が華やかに歌われ、アルゼンチン・タンゴの曲が若人の胸をうった古きよきご時世だった。先年物故[2]したエノケンはまだ三十代で、浅草六区の水族館の二階の薄ぎたない舞台で『カジノ・フォーリーズ』をやっていたし、NHKの『ジェスチャー』番組をにぎわした金語楼が神楽坂の寄席で、西村楽天などと一緒に、大向こうを抱腹絶倒させていた頃だ。片やターキーこと、水之江滝子が『男装の麗人』として普ねく東都の男性を悩殺していたのもこの時代だったと言えば、およそ当時の情況を想像していただけると思う。

昭和十年を過ぎると、戦雲漸く動き、徐々に歓楽の歌は消えて、悲痛の叫びに変わり、民族の興廃を賭けた狂乱怒濤(とう)の歳月が続く。十九年応召。中国は江北の一寒村、支塘(とう)鎮の決死隊に加わり、流水のほとりの楊柳の葉蔭で、『さらば支塘鎮よ、また来る日まで』と戦友とともに、嗚咽(おえつ)の声をしぼった自分である。

かかる十有五年の造次顚沛(てんぱい)[3]の間に、恰も孤鳥の驟雨[4]を避けて、大樹の枝に身を寄せるがごとく、天の声に従って、田夫の一書生がその膝下に馳せ、その高庇[5]のもとに安念をえた高士畏友の数は内・外人それぞれ数十人にのぼる。すでに鬼籍に名を列ねた方々の幾人かを内外交互に取り上げて読者の清鑑[6]を乞うことにする。

(二)

『汝の心の赴くところに行け。そこには汝の魂の呼ぶ声あり』(シラー)。

青春の哀歓の中に、こうした多数の方々のお世話になれたのは、先に述べたように、天の声に従ったというほかはない。今、当時の思い出が夢幻と現実の間に漂よう。

011トマス・ハーディはその文学論で、『小説は現実を描きながら、現実以上に現実的でなくてはならぬ』といっているが、私は当時のこうした人々とのかかわりを考えてみると、喜楽憂傷互いに参差[7]し、現実そのものが、文学以上に文学的だと思っている。世には善あり、悪あり、邪あり、正あり、しかも、そうした人生萬華鏡の内奥には、人皆、真を求め、善に向かい、美に格(いた)らんとする神格の世界がある。そこに心のロマンが恒存する。史家トインビーは、一切の時代の惨禍を踏み越えて、人類の歴史は究極の善に向かうのだといっている。人の一生もまた然り。今静かに既往を顧望するとき、こうした人々との出会いを通じて私が受け取ったものは、楽しみは少なく苦しみのみが多かったようにも思えるが、そうした苦楽の底にはやはり、人生のたゆらかなロマンがあり、悲喜交々の現実の彼方に、人間これ無量なるものの厳存する所以を思うや切である。

私はこの十五年の間の苦楽の中に、私自身の不立(りゅう)文字の文学があると信じている。

(三)

閑話休題。前述の通り、昭和元年の猛暑の候、初めて東京の土を踏む。高校一年の時、当時本郷は湯島の金助町にあった『第一外語』で、イタリア語の夏期講座に出るために、蒲田の叔父を頼って上京した。当時は京浜国道も舗装がしてなかったので、蒲田行きのバスが上下に激しく揺れ、二、三回、バスの天井でしたたか頭を打った。蒲田に着くと、財布をすられているのに気がついた。掏摸[8]の炯(けい)眼(がん)[9]はこの阿呆面の田舎者を見逃すはずもなかったろうと諦めはしたが、そこには、大都会の魔性のようなものを感ぜずにはおれなかった。その後何年かして、ある恩師の一人である高名な教授がお茶の水でバスに乗る際に、確かに財布の中にしまったという高価な金時計をパクられ、しかも金には一切手を触れられていない。警視庁へ届けに行かれたら、係官曰く、『この節の掏摸は技神に入っているからご注意を』。先生曰く、『八木さん、財布をすられるくらいでなくちゃ、学問はできないよ』と。『先生後生その軌(き)を一にす』ですかと笑ったことだったが、盗難だけが似たのでは困った不肖の弟子である。

さて金助町の外語(その後間もなく廃校になった)の講師は東京外語の粟田教授だった。十年後に、八杉貞利先生の推輓[10]で私がそこの講師になり、再び粟田先生のお世話になったのも奇縁である。ところが昭和十七年に満鉄調査部の用務で、南溟(めい)瘴癘(しょうれい)の地に飛んだ際、粟田先生の令息のお陰で九死に一生をえたのだから、まことに世の中というものは摩訶不可思議である。海南島を離陸した陸軍の輸送機が密雲に突入し、高度五千を越えても視界が開けず、西貢[11]まで三時間の航程が、すでに四時間を経過しても、いっこうに方角が立たない。脈搏は結滞し、色は皆青ざめ、西鶴の小説の結びではないが、『行衛も知れずなりにけり』かと同席の人に冗談を言ったのは覚えているが、気がついてみると、エール・フランスの飛行場で顔見知りの一青年が『先生、先生』と介抱してくれている。誰かと思えば、これが粟田先生の令息で、外語の仏文科を出て西貢のエール・フランスに勤務していたのである。在学中に、小生のクラスに出ていた学生である。

(四)

008金助町の講習会は一ヵ月で終わった。聴講生は若い人ばかりだったが、ただ一人、中老の紳士が最前列の教卓のまん前に陣取って、熱心に聴講するかたわら、われわれにもなにかと話しかけて、見ず知らずの若い人たちの雰囲気をほぐしてくれた。粟田先生に対しても、『先生お暑いでしょうから、どうぞ上衣をおとりになって!』などと如才がない。物腰の柔らかい、見るからに気品にあふれた風格の持ち主。講習が終了したとき、このおじさんがやおら立ち上がって、『皆さん、せっかくこうして志を同じくするものが集まったのですし、また粟田先生にもこの酷暑の中をご苦労になったのですから、一席懇親会を開いたらと存じますが、いかがでしょう。申しおくれましたが、私は東洋大学の林という者です』と動議を出された。パチパチとみんな手をたたいた。帰りの夜行に乗って、東京の灯が見えなくなったころ、この老先生と粟田先生の俤(おもかげ)が交互に自分のまぶたに浮かんだ。二年後に、林古渓という国漢の先生が松高に着任された。人違いかと自分を疑ったが、勇気を出して、金助町の第一外語のイタリア語のときお目にかかったように思うのですがと、恐るおそる伺ったところ、やはり、あの『東洋大学の林』先生だった。思えば一会(え)の一挨一拶すべてこれ、内因外縁の致すところか。

[1] ひととおり。

[2] 人が死ぬこと。

[3] わずかの間。

[4] にわか雨。

[5] おかげ。

[6] 他人の鑑識を敬っていう語。

[7] 入り混じるさま。

[8] とうぼ。スリ(盗人)のこと。

[9] 鋭い眼力。

[10] すいばん。推薦のこと。

[11] ホーチミン市。旧ベトナム共和国の首都。