一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

はじめに

(一)

俗世に跼蹐(きょくせき)[1]して甲羅をさらすこと六十余年、今なお、天と地の間に起居を続けている。

『我思うが故に我あり』とは西哲の言葉であるが、自分の場合には、我思わざるが故に、いまだ生につながる、とも言えよう。七百年の昔、西アジアの砂漠に遊行の生涯を終えた聖者、シェイヘ・サアディーは、『ああ五十路を過ぎて、いまだ悟ることなきや、ここ両三日の命我にあらばとて…』と自戒しているが、もとより老残凡庸のわが輩は自ら悟りえざることを悟りえてあえて泰然自若[2]たらんことを希うのみである。

したがって、あるいは思うと言い、あるいは思わずと言っても、どうせたかの知れたことで、いずれも、そこはかとない癡(ち)奇妄執(もうしゅう)[3]の域を出ない。

022間は還暦を過ぎると、徐々に心の歯車が逆回転をはじめるような気がする。余人はいざ知らず、少なくとも迂生[4]の場合には、しかりである。つまり心が後じさりを始めるのだ。近頃『前向き』という嫌な言葉がはやるが、僕の場合はそれと反対に、前を見ないで、ひたすら後に向いて動きだすのである。かつて来た道は時の葎(むぐら)[5]におおわれて消えかけているが、その細くつづく道に歩みをかえして、遠い昔の足跡をたずねながら、とぼとぼと霧雨に煙る過去へと帰っていくのだ。

ニーチェは『永遠回帰』といったが、私の場合は、そのように高踏な思想的回向ではない。

ただ、かりそめに生きて、かりそめの道を、心あてにたどって、もと来たところにもどってゆくだけで、つまり愚に帰るとでも言うところである。

そんなわけで、思うと言えば、ひたむきに歩いた去んぬる日日への憧憬であり、思わざると言えば、言わずもがな、浪々の身、『病む雁の夜寒に落ちて旅寝かな』の風懐に安住のいおりを結び、あえて風羅坊の名にかこつけて、『風に破れ易からんこと』を願うわが魯(ろ)鈍[6]の心であり、またその魯鈍の心に映るはしたない世塵のさまかたちである。

 

 

(二)

035晩秋の夜ふけ、蕭(しょう)々[7]の風とともに心に思い浮かぶものは、はるけくも遠い越しかたの旅路である。風は私の心をいざなって、足ばやに、かつて通った嶮峡をつたい、隘路を縫って、人生幾山河のありし日のおもかげの前に私を連れ戻すのである。

私は若輩の頃、十五年ばかりを東都の肩摩轂(まこく)撃[8]の雑沓の中にまぎれこんで、わび住いをつづけた。それは私にとっては、人生花の頃でもあった。あえて百花撩(りょう)乱とは言わない。田圃の片隅に咲くすみれのわびしさであったが、とにかく東京は私にとって、第二の故郷である。もっとも、私の心の遍歴に風趣をそえてくれた当時の都の姿は見るよしもなく、今はもうすっかり遠い思い出の彼方に消えはててしまって、影も形もあらばこそである。それだけに、この異郷の屋根の下に寓住した寒来暑往[9]の幾星霜[10]は、痛ましいばかりになつかしい。しかもそのなつかしい往時の姿さえ日に日に黄昏(たそが)れて、やがて追憶の彼方に没しかけている。

ファウストの『献げの詞』を借りれば、『再び近づき来る汝(なん)達、かつてそのかみ、おぼろなる眼の現れきし、かそけき姿ども、こたびこそ、汝(な)を繋ぎとめるべく試みやせむ。 …さて汝達が伴い来るは、楽しかりし日のおもかげの数々、さて連れて浮び出ずるは、あまたのなつかしき影なれ。…親しく寄りし団欒(まとい)は散(あら)けぬ、始めのこだまは、あわれ消えぬ。昔わが歌に楽みし誰彼、なお生けるもあれ、世に散りて迷えり。…消えにしものぞ、身に現(うつつ)なる』といった心境である。

『旅は道づれ』とか。故郷の慕わしいゆえんは、山川草木のたたずまいではない。父母兄弟、恩師、朋友等々、生々流転の中にけち縁によって、相接することをえた人の姿が我を招くからでこそある。『世は情』とはいみじくも言いつるものと思う。

私が生まれ落ちると、祖父は私を溺愛した。私にも兄もいたが、生まれて間もなく死んでしまった。元気に育たなくてはと、名前までそっくり祖父の名前を付けたとのことである。小学校にあがるまで、私はほとんど四六時中、祖父の背中の上で過ごした。祖父は昔の軍記に詳しく、肩越しに後藤又兵衛だの、田原藤太秀郷だの、昔の武将の話をよくしてくれた。近所の子供が遊びに来ても、『おまえらの鼻たれとは遊ばさんのじゃ、用があったら呼びにいくけれ、帰っとれ』といって追いかえしてしまった。元来、社交性に乏しく、小心で、そのくせ、いささか負けぬ気が強いのも私の生い立ちのせいかもしれない。

(三)

私は昭和四年に大学にはいってから、十九年、すでに戦争も敗色おおうべからざる段階になって応召をうけ、中支に一兵卒として出征するまで、東京に在住し、ずいぶん多くの有名、無名の人たちのご厄介になった。

とりわけ、年輩の人々、ことに老齢に達していた内外の人士に格別可愛がってもらった。どうして老人とよく気脈が相通じたかは、定かにこれという理由も見当たらないが、強いて自分なりに反省してみると、上述のような祖父の影響も多少はあったとは言え、要は宿業のしからしめたものと考えている。

易水の辺風寒しとか、わが生の終焉もほど近き今、再びわが往時のふるさとを尋(たず)ね、盛年の昔をしのぶとともに、遍歴の路傍にあるいは叱咤を受け、はたまた和言(ごん)の施しにあずかった尊師、敬友の思い出を、禿筆[11]に託したいのである。

ほかのことは、日とともに忘却されていくが、これだけが、いつまでも私の胸中に徂(そ)徠するのである。これだけが私のもので、何人といえども、これを奪うことはできない。しかもそれは、たとえおぼろげなものであっても、私とともにあり、私とともに生き、そして、私とともに消えてしまうものである。無情な時の流れとともに、ややもすれば、薄れゆく記憶の地平線から、平清盛が日を呼び戻そうとしたような気持ちになって、この再来することのないありし日のことどもをささやかな、わが袖の記として書きとどめておきたいと思いたった次第である。

[1] 身の置き場のない思いをすること。

[2] 落ち着いていてどんなことにも動じないさま。

[3] 愚かで奇妙な妄想にとりつかれていること。

[4] 自分をへりくだっていうこと。小生。

[5] つる性植物の総称。生い茂るようす。

[6] 愚かで鈍いこと。

[7] ものさびしいさま。

[8] 混雑しているさま。都会の雑踏のこと。

[9] 一年の移り変わり。

[10] (多く、苦労や努力を重ねた結果としての)長い年月。

[11] 自分の文章や筆力をへりくだっていうこと。