一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

3 日米秘話

(一)

大塚籠町の六義園の筋向かいに、理研と並んで、『東洋文庫』があった。ここはかつてのモリソン文庫などを土台にして逐次拡充された東洋学関係資料の宝庫で、世界でも有数の図書館である。

北予中学校時代に同期だった故藤野彪君(元愛大教授)などは、東洋史を専攻した関係で、ここの「有名な」常連の一人だった。強くもないのに、将棋が好きな点は小生に似ていたが、彼は資性磊(らい)落[1]で、社交的。折畳みの盤上に駒を並べたまま、文庫の中を持ち廻り、来館者に誰彼の別なく、『あなた、将棋やりませんか』と大声で訊いてまわったりしていたのが、今でも目に泛(うか)ぶ。普通なら叱られるところだが、学生ならではの特権である。

昭和の十年代にこの東洋文庫の所長をされていたのが、当時の東洋史学界の双璧(へき)の一人を以て自他ともに任じていた石田幹之助先生であった。石田先生には、藤野君との関係もあって、学生時代から、公私に亘って、なにかとご指導を仰ぎ、お世話をかけた。

先生は親分肌で、堂々たる恰幅(かっぷく)を和服に包み、年中袴を着けておられた。一旦、事、専門の分野に及べば、談論風発[2]、その熱弁は滔(とう)々として尽きるところがなかった。

昭和十二年、若葉の薫る五月のある日、石田先生より来翰[3]。折入って相談したき儀あり、ご来駕を乞うという旨が認(したた)められてあった。早速、拝芝(し)[4]に及んだところ、

『実は今、私は国際文化振興会にも関係していまして、日本の歴史、とくに日本固有の文物・制度、例えば弓矢とか甲冑(ちゅう)の類をはじめ、建築や美術、服飾など、外国人が日本の文化や伝統を理解する上に必要な項目を選定し、これを英訳して、事典的にまとめていく仕事の監修をやっているのですが、これもなかなかたいへんな仕事です。

ところで、今日来て頂いたのは、この国際文化振興会の件なのですよ。ここに出入りするのは、全部外国人で、日本語とか、日本文化の研究にたずさわっている人ですが、そういう人たちに適当な助言をしたり、質問に答えてやる、また振興会自体が日本文化の海外普及事業をやっていますから、その企画や立案に際して、意見を出して頂く、そういう若い人を推薦してくれと、主事の青木(節太郎)さんに頼まれましてね。史学や国語畑の人といっても心当たりがないので、是非あなたにお引受け頂けたらと思っているんです。お忙しいことも知っていますから、週に一回か二回、しかも半日だけで結構だとのことですが、いかがでしょう』

というお話だった。

もともと国際的な仕事に関心を抱き、駐南米大使などをされていた山縣氏の令弟がやっている『日本外政協会』の会員にもなったり、日本女子大の井上秀子校長の夫君、井上雅二氏や初代アフガニスタン公使だった北田正元先生が経営されていた『日本・アフガニスタン協会』の研究生にもなっていた関係もあり、さらにまた、当時の大学は数も少なかっただけに、教員の半分は学に淫する敦(とん)厚[5]の士だったが、あとの半分は狎黠(こうかつ)[6]な学匪のたぐいに近かったので、蝸牛角上の争[7]をはなれ、多少は外の風にも当たって、出門一笑の気分にもなって見ようと思っていたことだし、しかも、ほかならぬわが敬仰する石田先生の思召しとあっては、即座に先生のご好意をお受けせざるをえなかった。もちろん、辞令を頂戴するような正規のポストでもなく、今日で言うアルバイト程度で、至極、安穏な身分が、何よりの魅力だった。当時、一、二の大学の講師もしていたが、時たまこういった別天地で、一遊一豫の機をえたことは、有難い。

028しかし、浮世は有為転変[8]、あたかも旅ゆく人が、ふと足を止めて、路傍の石頭にしばしの憩いを求めるにも似た、気軽な、ついかりそめのことと思ったことが、後になって、色々な意味をもってくる。

もし私が石田先生と出会うことなく、また先生の言に耳を貸さなかったら、自分には今、こうして『日米秘話』を書くすべがなかった。禅では些細なことも、巨大なものも、天地を貫き、主客を貫き、迷悟を貫くと教えている。一行三昧、すべて、心花開発の契機である。

(二)

国際文化振興会は外務省の外廓事業団の一環で、日本文化の海外紹介を目的として設置され、当時は外務省の市河文化部長の管掌下にあった。年間予算は当時の金で五十万円。会長は徳川家達公爵(家康の子孫で、顔も歴史の本に出る家康の図に似ていた)で、役員は黒田伯爵だの、檀男爵だの、お公卿さんばかり。総務部長(主事と呼んでいた)が前記の青木節太郎氏。この人は大学の先輩だが、法科出で、褒めてもくれたが、叱りもした。日本語の手紙の添削に妙をえた人で、いつも私の手紙の草案に手を加えた。これは終生忘れ難い感謝の思い出である。総務には日銀のロンドン支店長の令息、加納某君と、二人の二世の女性、後にフランス文学畑で一家を成した小場瀬卓三君もいた。翻訳部には若い坂西夫妻がおられ、夫人の志保女史は後に文筆を以て名をなしたので、ご承知の方もあろう。二世の人の中では、島之内君という色黒で小造りの青年がいたが、この人は戦後、東京裁判の通訳をされたくらいで、振興会きっての英語の達人だった。

ここには、日本に関する各国語で書かれた約一万冊の図書や資料があった。このライブラリーの主任をしていたのが、元東京帝大で姉崎正治館長の時代に司書(司書官の長)をしていた、コロンビア大学出身の長沢正雄氏。至極好人物だった。よくその図書室へ遊びに行ったが、この人は大の釣りマニアで、あまり話が大きいので、ある日、お手並み拝見をかねて、一緒に千葉の野田醤油の裏手の川へ案内してもらったが、頭の先から足もとまで、出で立ちがものものしく、釣り針もアメリカへ注文するのだとか、一通りの凝りようではない。一日中馬鹿みたいに糸を垂れて、釣り針くらいの小ブナを二匹釣っただけ。江戸ッ子には、こういう間の抜けたところがあるのかと思った。

振興会の事務所は旧市電の馬場先門のそばの、現在の明治生命ビルの七・八階にあった。宮城の真ん前で、当時はスモッグもあまりなかったので眺望絶佳、東は遠く両国あたりまではっきり見えた。

プラタナスの並木がしっとりと霖(りん)雨に濡れた六月のある日、私が長沢釣吉と話をしているところへ、軽い足どりで、あまり背の高くない四十がらみの外国の紳士がはいって来た。コロンビア大学の日本語、日本美術史を担当していたヘンダーソン先生である。これがこの秘話の主人公との最初の出会いの瞬間である。

(三)

長沢さんの紹介で初対面の挨拶をかわし、しとしとと降る窓外の雨をよそに、この遠来の客に対した。

『コロンビアと言えば、この長沢館長の母校ですね。私は長沢さんとは大学時代からのおつき合いですが、学問の話は一度もしたことがなく、釣り談義ばかり聞かされています』

と言うと、長沢さんが苦笑しながら、言葉をはさんで、

『ニューヨークではロング・アイランドあたりへ行っても、大きい黒鯛がすぐかかりましたからね』。

長沢哲学にはもう懲りているので、私の方で話をそらした。

『いつか長沢さんから伺ったのですが、東京には先生の大学の卒業生が三十人あまりもいて、「コロンビア会」を組織しているそうですね。私の大学時代の専攻科目の担任だった荒木茂先生もコロンビアで、A・W・ジャクソン教授に師事していました』。

すると先生は、

『そうでしたか、それはなつかしい。すると貴君も学問の系譜では、コロンビアと繋がっているんですね』。

(四)

ヘンダーソンの英語は訛(なまり)のない、きれいな英語だった。米国でも、ニューヨークの英語は分かり難いという定評があることを仄(そく)聞[9]していたので、先生の言葉はことさら印象的だった。言葉もさることながら、態度が謙虚で、端麗な着こなし、柔和な相貌が、いかにもその人の人品を象徴しているように感ぜられた。振興会(KBSと略記)の連中は、徳川会長や檀さんのまねをして、貴公子然とした服装をしていたので、小生はいささか義憤を感じていた。とくに、永松嬢という青木主事の秘書が、―これも政界か財界かの著名人の子女だった―他の一、二の女の子と広い部屋の片隅で、小生の方に代わるがわる視線を向けては、立話に耽(ふけ)っているのに気がつき、劣等感さえ抱きかねない自分だった。なにしろこちらは貧乏書生、神保町で十五円の既成服を求め、年中、仇かたきのように着ていたのだから、気がひけたのも無理からぬ話である。しかし、弘法大師などの傑僧でも、みすぼらしい姿で衛門三郎の門前に立ったので軽侮の念をもって見られはしたが、顚(てん)末はあの通りだったではないかと、郷里の石手寺の縁起を思い浮かべたりして、愚にもつかぬことを我が身になぞらえ、多少尊大な気持ちにもなっていた矢先だった。そこへ、すこぶる慇懃(いんぎん)で、いかにも物腰の柔かい偉大な学者が忽然と現れ、この若輩に対し、礼を尽し、辞を厚くして話をしてくれたので、今までの雑念はたちまち払拭されてしまった。

(五)

『先生は四、五年前に英文で「竹箒(ぼうき)」という本をお書きになったヘンダーソンというアメリカの学者では…』。

私の言葉が終わらぬうちに、

『ああ、よく覚えていて下さいましたね。あれは私なのです』

との返事。私は言葉をついで、

『それはそれは。あの書物は日本の俳句を米国に紹介された最初の本だったし、とくに私の郷里の松山の生んだ俳人子規にも言及されておられたので、とても興味深く読ませて頂きました』。

先生は椅子から躯を乗出すようにして、

『ああ松山の方ですか。あの本には、あなたが見られたら不備な点や間違いなども多いのではないかと思いますが、お気付きの点はご遠慮なく言って下さい。私の知識を過大に評価されないように』

という先生の謙遜な、しかも学者らしい態度に私は少なからず敬服した。今にして思えば、生涯多くの外国の学者にも接したが、これほどまでに己を空しくして人の心を惹きつける人は、絶えてなかった。格別これという能もないくせに、傲慢不遜な人は多かったが。この小づくりの先生が、何倍も大きく見え、人格の慈光がその躯を包んでいるかに思えた。

ゆっくりと煙草に火をつけ、指の間に挾んで、その先端を少し床の方に傾けながら、先生の話はなお続いた。

『京都までは参りましたが、残念ながら、松山へ行く機会を失しました。実は私の父は生前、日本の美術に憧れ、米国で日本の浮世絵の収集を始めた最初の一人でした。私もその影響で、父が亡くなりますと、一九二七年からしばらくの間、メトロポリタン・ミュージーアム・オブ・アート(有名な美術館)の極東部に勤務しましたが、その後、母を連れて世界一周の旅に出ました。最後の目的地が日本だったのですが、父が終生渇(かつ)仰していた日本に来まして、私は父の素志を生かす道は、日本美術の研究をする以外にないという確信をもったのです。しかし、そのためには、日本語の習得が不可欠であることを悟り、とうとう帰米を断念して、そのまま京都で三年間勉強したわけです。昭和五年のことです。当時京都には九十人ほどの外人がいましたが、日本語の研究生は私が唯一人だったので、皆さんにとてもよくして頂きました。ラングドン・ウォーナー博士と知りあったのもその時です』。

(六)

私は先生の奇特な志に感動し、

『私は長沢さんからもうされたように、最近になってKBSに時折来ていますが、先日も加州のポモナの大学の若い女の先生が来られ、日本語を全然知らないのに、その大学で日本語と日本文学を教えていると言われるので、不思議に思って聞いておりますと、英語で書いた教材がたくさんあるから、少しも不自由はしない、とのことでした。アメリカの学問に不信感を抱いていたところ、今日先生のような方にお会いできて、感銘を新たにしました』。

すると、長沢館長が、

『ヘンダーソン教授は、この度、非常に重要な使命を帯びて来日されているのです』。

これを聞いて、私も驚き、先生に『重要な使命と申しますと』。『………』。

027先生の白皙(せき)[10]の童顔に急に赤味がさし、私も一瞬緊張を覚えた。先生が煙草の吸がらを灰皿に入れたとたんに、秘書の永松嬢がはいってきて、恭しく一礼し、『お話中大へん失礼いたします。ヘンダーソン先生、青木主事が手がすきましたので、お部屋の方へおこし頂けますでしょうか』と伝えて、また丁寧に会釈をした。

『それでは八木さん、いずれゆっくり、あなたとお話する機会を』と握手を求められて、秘書と一緒に図書室を出て行かれた。『重要な使命』というのは一体なんだろうか。

(七)

帝国ホテルのフロントを右に折れると、外国の新聞や雑誌の売店があった。その前がロビーの一部になっており、そこへボーイが私を案内した。

やがてヘンダーソン先生が瀟洒(しょうしゃ)[11]な姿を現わした。『やあ、どうも』。相変わらず愛想がいい。

ガラス越しにホテルの玄関口の池が見え、さらに電車通りを隔てて、日比谷公園の亭々[12]たる樹木が梅雨明けの空にそびえ、鳩が群をなして忙しげに舞っていた。

『米国では中国語を履修する者が圧倒的に多く、日本語を勉強する人が少ないのです。しかもその理由は明白で、中国語の場合には、辞書、文法書、その他研究上の便宜が完備しているのに反し、残念ながら、日本語に関しては、そうした参考書は寥々[13]たるもので、取りつきにくいということです』。

ヘンダーソンは『寥々』というところをとくに強調した。

『私も同じようなことを、フランク・ホーレーさんから伺ったことがあります』と私も先生の所見に賛した。ホーレー氏は日本人と結婚し、その当時、『江戸川アパート』で社会党の安部磯雄先生の隣の部屋に住んでいて、東京外語などの講師をしていた人である。

『第一、辞書だって…』。

ヘンダーソンは言葉を続けた。『現在日本で出版されているものは、一冊本の、ごく簡単なもので、とうてい、これを頼りに、日本の古典などを読むことは不可能です。しかも、百語のうち、十五語くらい間違いがある。これでは、日米間に誤解が深まるのも無理からんことを憂えています。そこで、ニューヨークの有力者であり、かつ、日本美術の権威でもあるルドゥー先生と相談して、未曽有の大規模な和英辞書を編纂(さん)することにしたのです。一応、英国のオックスフォード辞典(英英辞典で、十二巻、補遺一巻)に匹敵するものをと考えています』。

『そうですか。マレー博士が監修したあの辞書は英国の僧侶や学者を総動員して、約一世紀の歳月をかけて完成し、出版のあかつきには、初期の執筆者はみな故人になっていたと聞いていますが、これに劣らぬものを作るとなると、並々ならぬ大事業ですね。具体的には、どんな段取りで進められますか』という私の質問に対して、『日米双方から五十人ずつの学者を参加せしめて、編集スタッフを構成し、古代から近代までの主要

文献を渉猟[14]し、例えばある一つの「語」が日本のなんという文献に初めて現われ、どういう意味に使われていたか、また、時代の変遷につれて、語形や語意がどう推移していったかを歴史的に追跡していくことが必要です』。

(八)

先生の語気は次第に熱を帯びてきた。そこへ、犬丸さんというホテルの支配人が現われ、先生に二言、三言、用件を訊き、また一礼して立ち去った。

『失礼しました』と断って、先生はまた言葉をつづけた。

『これには相当な経費が要ります。その点、唯今申し上げたルドゥー先生と協議し、二人で、ロックフェラー財団に何回もかけ合った結果、当初予算として二十五万㌦の助成を確約してまいりました。この方面の仕事を少なくとも部分的には、担当されているやに聞いていますので、あなたもこの日米共同の文化事業の意義を理解していただき、君なりの意見を主事の青木さんにも伝えてもらいたいと思って、今日来てもらったのです』。

このことを聞いて、私にも少し思い当たるふしがあった。

『いや実は、私はこの儀に関して、主事からは何も聞いておりません。日の浅いせいもありましょう。ただ、最初振興会に顔を出した日に、青木さんが、「日本語の海外普及に関する座談会」と銘打ったタイプ印刷の速記録を四、五冊私に手渡され、これを読んでおけ、ということでした』。

『いや、それが私に対する回答の準備らしいのですが、まことに迂(う)遠[15]な話で、もう私が東京に来てから、四、五ヵ月も経っているんですが、いっこうに結論が出ないのです』。

(九)

さて、この座談会というのは、毎回、多少顔ぶれを替えて、最終的には六回行われた。当時の出席者で、私の記憶にあるのは、英語では市河三喜教授、東京高師の神保格教授、東北大の土居光知教授等、国語学畑では、橋本進吉教授、金田一京助助教授、国文学では藤村作、島津久基両教授、また日本語教育の経験者としては、稲垣氏などである。

およそ座談会と称するものは、昔から面白くも可笑(おか)しくもないのが相場だが、ご多分にもれず、各冊とも、団子理屈が並べられているばかりで、頭も尻尾もない話ばかり。私も一、二冊目を通しただけで、そのままにしていた。

一ヵ月ほど経った或る暑い日の午後、振興会に顔出しをすると、一人の逞しい青年が、『暑くてやり切れないよ』などと傍若無人にわめいている。本雇いになっていた稲葉君という同窓生が横にいたので、『あれは誰だい』と訊いたら、『ドモンケン』だという。『何だ、そのドモンケンと言うのは』と反問すると、土門拳という写真家で、京都御所の写真などを撮(と)らすのだが、すごくうまいんだ、とのこと。ちょうど彼が故木村伊兵衛さんらと『日本工房』という写真会社をやっていた頃である。拳さんの蛮声に呆れていると、主事室へ呼ばれた。

ワイシャツに十五円の服のズボンだけつけて部屋にはいり、一礼して前に坐った。人のズボンをギョロギョロ見ながら、

『八木君、例の件だがね、外務省とKBSの役員で色々相談した結果、結論を先に言うと、ヘンダーソンの提案は断ることになったんだ。第一、アメリカ人に日本語が分かってたまるかという意見が強かったという印象を僕は受けたね』とまるで他人ごとのように言う。

『その代り、振興会独自でやることにしたから、君一つ、見本を作って見てくれないか』。

とんだところへとばっちりが来てしまった。三ヵ月ほどかけて、『あがる』という動詞を一語だけ見本にとって、草案を作り、在京の外人を十四、五人歴訪して意見を徴したのもつい昨日のことのようだが、すでに四十年昔の話である。

数日後、帝国ホテルの同じところで、ヘンダーソンと別れを惜しんだ。先生の従(しょう)容[16]とした態度にうたれた。『日本の学界は米国の学界を信用せず、米国の学界は日本の学界を信用しません』ともの静かに言われた言葉が、今も耳朶に残っている。

再会を約して立ち上ったとき、先生は私の手を握ったまま、『八木さん、いつでも結構だから、協力してくれる日本の学者がいたら、二十人でもよいから、必ず私に知らせて下さい。長い間お世話になりました』と鄭重に挨拶をされた。これが今生の最後の離別になろうとは、神ならぬ身の知る由もなかった。

[1] 度量が大きく、小事にこだわらないこと。

[2] 談話や議論が活発に行われること。

[3] きがん。送られてきた手紙。

[4] 面会すること。

[5] とんこう。誠実で、人情に厚いこと。

[6] ずるく悪賢いこと。

[7] かぎゅうかくじょうのそう。つまらない争いのこと。

[8] この世は、常に移り変わっていくはかないものであること。

[9] 少し耳にはいること。

[10] 皮膚の色が白いこと。

[11] すっきりとあか抜けているさま。

[12] 高くまっすぐにそびえているさま。

[13] りょうりょう。数が非常に少ないさま。

[14] しょうりょう。調査や研究のためにたくさんの書物や文書を読みあさること。

[15] まわりくどいさま。

[16] あわてて、焦ったり騒いだりしないさま。