一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

沖縄慰霊の日 (1)

友人のIK君からこんなメールが来た。

<昨日(6/23)は沖縄慰霊の日でした。新聞・テレビを見ていてがっかりしました。これに関する報道がほとんどありませんでいた。

8・6の時は1か月もそれ以上も前から騒ぎ始めるのに、沖縄の犠牲についてはどうしてこれほど無関心なのでしょう。

沖縄は今もって半植民地状態であり、日本の防御壁として数々の犠牲をこうむっております。沖縄の人たちの要求は本土並みの人権を確保してくれということではないでしょうか。基地に関する根幹の要求ではないかと思います。今朝の中国新聞では、地位協定の改定を知事が求めたとありますが、当然です。

難波先生のご高説をいただきたいところです。>

 

「ご高説」などないが、とりあえずこういう返信を送っておいた。

<やっとメールが再開できたところです。

強い交感神経緊張症があり、肩凝りに悩まされ湿布薬を貼り付けています。

お訊ねの問題は、太田海軍少将の「後世、格別の配慮あらんことを」という訣別電、皇太子ご夫妻ご訪問の際の火炎瓶投擲事件、嘉手納基地はできた後に那覇市の都市化が進み、周囲に住宅ができたこと、それを辺野古に移設しようとすると反対運動が起きたこと、大江健三郎の「渡嘉敷島で守備隊の赤松大尉が集団自決を命じた」というウソが暴かれたこと、アイヌと同じように日本人本土人に対するうらみが今も強いこと、沖縄独立運動もあることなど、非常に複雑な問題があると思います。できれば来週か再来週にでも、私の意見を資料に基づいて鹿鳴荘便りに発表したいと思います。>

 

その後、関連書を読みなおしたり、新しく読んだりして自分なりの意見が何とかまとまったので、以下に述べたいと思う。以下、1)明治維新前の沖縄史、2)沖縄の日本編入、3)それ以後沖縄戦まで、4)戦後の米軍軍政下から1972年の本土復帰までをまず記述する。

☆4回に渡って連載します。お楽しみに(編集子)

明治維新以前の沖縄(外間守善「沖縄の歴史と文化」、中公新書):

最古の沖縄人は後期旧石器時代の「山下洞人」(3万2000年前の化石人骨、穴居生活)、「港川人」(1万8000年前、1号人骨=成人男性、2号人骨=成人女性は全身骨が保存されていた)など旧石器時代の化石人骨は沖縄県での出土例が圧倒的に多い(片山一道「骨が語る日本人の歴史」, ちくま新書, 2015)。

沖縄の新石器時代は戦前には縄文土器の出現が見られるだけで、弥生式土器が発掘されなかったが、1953年に沖縄本島北部の伊江島の貝塚から弥生中期の土器が発掘された。縄文土器、弥生土器ともに貝塚から見つかるので、沖縄考古学ではこれを「貝塚時代」と称している。

沖縄に稲作が伝来したのは500年頃と考えられているが、水田遺跡はまだ発掘されていない。

 

「隋書巻81:東夷伝」(636年成立)に「流求国」の名前が出てくるが、「倭国伝」(藤堂明保・竹田晃・影山輝國:全訳注, 講談社学術文庫, 2010/9)を読むと、沖縄の葬制である「洗骨」の風習の記載がなく、土葬となっており、「倭国伝」訳注にいうようにこれは台湾と混同されていると思われる。

中国の僧鑑真は、過去6回の日本渡海に失敗し、6回目の遭難で両眼を失明していたが、753/12月、帰国する第十次遣唐使船の2番船に同乗することを認められた。ただこの船は「阿児奈波島」に漂着し、半月ほど滞在した後、屋久島、薩摩の秋妻屋浦をへて太宰府に到着した。「オキナワ」という表記はこれが初出である。(「続日本紀」、「唐大和上東征伝」)

但し「続日本紀」には鑑真渡来の記載はあるが、2番船が沖縄に不時着したことは記されていない。(「唐大和上東征伝」は未確認)

この時代、屋久島、種子島などは大和朝廷に朝貢していたが、沖縄本島から大和王朝に対する朝貢使節は派遣されていない。

日本で「沖縄」という表記を最初に用いたのは江戸中期の新井白石で、「蝦夷志・南島志」(平凡社東洋文庫)が初出である。本書には「琉球国全図」が載せられており、薩摩の国山川港から島伝いに「沖縄島」の那覇湊に至る航路が示されている(pp.145-159)。

 

沖縄出身の外間守善「沖縄の歴史と文化」は「R音が語頭に立たないというのが、日本古語、朝鮮語、沖縄語などアルタイ語系の原則」と指摘している(p.31-32)。なるほど「岩波古語辞典」をみても助詞、助動詞の「れる、られる」などはあるが、語頭がR音で始まる名詞はすべて漢語由来である。

これによって「りゅうきゅう」という音は中国側が沖縄とその付属諸島を指して外から呼んだ音である、という外間の主張は概ね正しいと私も思う。日本側も明王朝の呼称に習って「琉球」と呼んできたのだと思う。

 

「いろは歌」は空海(774-835)作といわれ、江戸時代には字引の語順、寄席の下足札の順番として用いられていた。だがその後の研究は「いろは歌」の成立を空海死後およそ百年後のこととしている。また「五十音図」の成立は11世紀後半、加賀の天台僧明覚によるとされている(山口謡司「日本語の奇跡:<アイウエオ>と<イロハ>の発明」新潮新書、2007)。

日本語で最初の「五十音配列」の字引は、大槻文彦「言海」(明治24/4,現ちくま学芸文庫, 2004/4)である。

上記、外間守善の著書によれば、沖縄に仏教と日本語用の文字がもたらされたのは、1265年、禅鑑という日本僧によってだという。1372年、中山国の王・察度が初めて明に入貢した時、明の皇帝宛の上奏文はひらかなで書かれていたという(上記「沖縄の歴史と文化」)。

 

14世紀初めの沖縄本島では、北部の「山北王国」、中部の「中山王国」、南部の「山南王国」が鼎立し、互いに争い、かつ明国にそれぞれ朝貢使を派遣していた。この時代を「三山時代」といい約100年続いた。中山王国では1187年、舜天が王に即位し、以後3代続き、1260年に英祖王系に変わった。これも5代で1249年、察度王家に交代した。察度王は初めて明に朝貢している。この時、明の太祖がオキナワに「琉球」という国号を与えたという。以後、北山王国、南山王国とも相次いで明に入貢している。

察度の子武寧が中山国王の時、1404年に明から「冊封使」が琉球に渡来している。これは当時の朝鮮と同じく、明に臣従し中国の年号と暦を用いる代わりに、属国の王として地位を認めるというものである。

 

その後、沖縄本島は「山南王国」から立った豪族尚巴志により、初めて沖縄全土の統一王朝が成立した(1429年)。これが「第一尚氏王朝」で1469年、第7代王尚徳の死まで続いた。その後、「第二尚氏王朝」が成立(1469)する。これは家臣の内間金丸が樹立した王朝で、即位するにあたって「尚円」と改名し、尚氏の王朝を継いだと詐称した。

「第二尚氏王朝」の二代目尚真王(在位1477-1526)の時代は50年間続き、この間に中央集権制と沖縄周辺諸島の征服が進行した。「沖縄の黄金時代」と称せられる。ただ外交政策は失敗で、明への朝貢を2年に1回から、毎年に変更し、もはや命運の尽きていた明への依存度を高めた。

この時代に首都が首里と定められ、王宮が建てられ、

た。家臣の豪族も首都に居住させられ、位階制が実施された。八重山、久米島、宮古島、奄美諸島などの周辺諸島も第二尚氏王朝により、武力制圧され「琉球王国」に組み込まれた。

外間の本によると沖縄では地方の豪族を「アヂ」と呼んだとあるが、新井白石「南島志」によると沖縄の官名は「按司—親方」の順になっており、「アヂ(按司)」は、第二尚氏王朝が創始した官名で、日本の平安時代における「国司」のようなものだったと思われる。初めは地方豪族をこれに任命していたが、中央集権が整うにつれて按司は「親方」に格下げされ、王族が按司職につくようになった。

 

明の皇帝から冊封されている琉球に対して、薩摩藩の島津家久は激怒し、将軍家康の許可を取りつけると、慶長14(1609)年、100隻の軍船に乗せて3000の兵を沖縄に送り、沖縄本島北部西側の運天港に上陸させ、またたく間に今帰仁城を陥落させた(「薩摩の琉球征伐」と呼ばれることもある)。

とうてい敵しがたいと判断した国王尚寧は首里城を出て、薩摩軍に降服した。約1ヶ月間の戦いだった。薩摩は国王と重臣を人質として鹿児島に連行した。この年8月、琉球が薩摩藩の所管とすることが幕府により定められた。この時薩摩藩は琉球全土の検地を行い、作物・漁業などの生産高を正確に把握している。この結果「知行目録」を約九万石とし、年貢米と反物などを薩摩に上納することを定めた「貢納目録」を定め、沖縄本島北方の奄美五島を割譲させた。

以後、琉球は明への朝貢を止め、日本の元号を使用することになった。国王尚寧が釈放され、帰国できたのは2年後の、慶長16年9月のことである。

琉球は薩摩藩から禄高約八万石と認められ、「小領主」格となり、島津家の吉凶に特使を派遣する、将軍の即位には慶賀使を派遣するなどの外交的義務を負うことになった。対明貿易は琉球にとって利益が多かっただけに、島津の属国とされたことに対する琉球王朝の不満は大きく、「江戸上り」に際しては、中国服を身にまとい、官名も中国音で発音したという(「読める年表・日本史」, 自由国民社)。

鎖国政策に転じた江戸幕府は、本土の開港都市は長﨑の出島として、オランダ・中国との貿易を維持し、朝鮮との貿易は対馬藩に委ね、蝦夷地及び沿海州との松前藩に委ねた。清に圧迫されつつあった明との貿易は、琉球を薩摩の支配下に置くことにより、薩摩に委ねようとしたのである。

 

以上をまとめると沖縄諸島は地理学的には日本列島の一部だが、地政学的には中国本土および台湾と隣接しており、対明貿易を維持するために朝貢をせざるをえなかったという事情がある。また沖縄本島も13世紀にやっと「ひらかな」が導入され、14世紀になるまで群雄割拠状態が続き、15世紀前半にやっと統一「第一尚氏王朝」が成立したという状況で、日本本土に比べてその文化的後進性が目立つのは否定しがたい。

カトリックの宣教師シドチを直接尋問し「西洋紀聞」を書いた新井白石は、西洋列強の東洋への進出に脅威を感じ、日本国の北限と南限についての知識を集約するために、「蝦夷志」と「南島志」をまとめた。しかし六代将軍吉宗の代に幕閣から追われたため、白石の知識は江戸幕府の外交政策に反映されなかった。

沖縄生まれの歴史家伊波普猷(いはふゆう:1876-1947)は「古琉球」(明治44/12,沖縄公論社:現岩波文庫, 2000/12)を刊行した。これに所収の「沖縄人の最大欠点」という論文で、「沖縄人の最大欠点は恩を忘れやすいことにある」と述べ、ここから外交上の「二股膏薬」が生まれ、「ご都合主義」が生まれると説き、「食を与えるものはわが主なり」という沖縄の俚諺(りげん)を引き、これを一種の「娼妓主義」と断じて、これは沖縄人の悲惨な生活から生まれたものだとし、沖縄近代史において一人の「赤穂義士」も「勤王の志士」も生まれなかったことを嘆いている。

慶長14年の薩摩による「琉球征伐」について伊波は「琉球史の趨勢」という論文で、古来、沖縄本島の西にあり上海や福建省に近い、久米島の島人が中国に留学して通訳や朱子学の導入者として機能してきたが、薩摩からの仏教伝来に伴い日本思想が伝来した。中国儒教思想と日本仏教思想の対立が慶長年間に生じ、これが薩摩の「琉球征伐」をもたらした政治的根源だと述べている。

沖縄史を通覧すると、コロンブスの大西洋横断に始まる「大航海時代」の到来やキリスト教の宣教と表裏一体となっていた西洋の帝国主義的侵略にまったく無知で、近視眼的な「事大主義」が支配していたように感ぜられる。このことは幕末に欧米人が沖縄に渡来したことにより、沖縄がいかに混乱したかでもわかるが、これについては次回2.「沖縄の日本編入」で詳しく述べたい。