一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

インド巡礼(二)

インド亜大陸では、五、六、七月に集中する雨期をのぞいて、雨がめったに降らぬという。いうまでもないことだが、人間の営みの清潔さはどうやら、水量の豊かさの度合いに正比例するようである。もちろん、山紫水明な国から飛来したわれわれにとって、この国で出合う不潔さにはほとほと呆れるほかない。

もっとも、アキラメとステバチの気分ほど、われわれの適応力にとって恰好な触媒はないのかもしれない。出国する頃にはそんな不潔さにもすっかり慣れ、かなりインド的になりきっていたのには自分ながらオドロイタ。村の茶店の田舎料理なども、食中毒を起こさぬことが不思議なようなその調理方法をみせつけられるにつけ、初めはとても手が出なかったが、新鮮な牛乳で沸かした紅茶とともに、勇を鼓してひとたび口に押しこむや、いかにも豪放なその味わいに、ついついインド料理の魅力をまたひとつ発掘してしまうのであった。

「インド巡礼②」そんなわけで、滞在日数がつみ重なるにつれて、インド的不潔さにもずいぶん不感症になってしまったわけであるが、それにつけても、わたしの感性が最後まで慣れ親しむことを拒絶したものに、あのヒンドウー寺院の猥雑きわまりない不潔さがある。視覚と嗅覚、そして触覚から攻めのぼってくる不潔感にプラスして、ヒンドウー寺院ではさらに猥雑な音響がつけ加わるからたまらない。

考えなおしてみれば、われわれの五官のうちの四官をこのように逆ナデするこの猥雑さのきわまりこそ、ひょっとしてインド的なもののもっともインド的な表現かもしれないのだ。周知のように、仏教は清潔な宗教である。釈尊の人格もまた、清浄の一言に尽きている。仏教が結局、この国にうまく定着しなかった理由のひとつに、この宗教のもつ高度な清潔さが挙げられはしまいか。

さて、不潔さと並んで、われわれ旅行者をことのほかいらだたせるものに、この国の住人のもつ非能率さ加減と時間観念のルーズさがある。そのルーズさは実際桁はずれのもので、それゆえ、もし近代化の度合いが合理化という尺度でもって量られるとするならば、この国はお世辞にも近代国家ではないのである。「より効率的に」だとか、「時間の節約」などといったセカラシイ観念は、あたかもインド人の脳細胞には先天的に欠落しているかのごとくである。”More work,Less talk”という官製のスローガンにいたるところで出合ったが、もちろん、この無政府主義的な国民は中央政府の必死の努力もむなしく、”More talk,Less work”であることを永遠にやめないであろう。

すこし理屈をコネていえば、それは大部分、なんとか食える亜熱帯的な風土の恵みと、その代償としての暑熱がかもす無気力に起因するに相違ない。過剰な人口や生産手段の貧しさからくる生産性の低さ、それにいまだに残存するカースト制のクビキもまた、かれらから労働意欲をうばいさるには充分であろう。だがそれにもまして、この途方もない国では、なにごとを成就するにも気の遠くなるようなエネルギーの集中と、長い道程が要求されるのだ。となれば、そんな苛烈な現実を前にして、かれらが効率を競う生きかたよりもむしろ、行き当たりバッタリのほうを選ぶとしても、それは人間的にきわめて共感出来る選択ではあるまいか。さきほどの不潔感と同じく、この非能率にも次第に慣れっこになるにつれて、わが身にしみついた近代的価値観がポロポロとコソゲ落ちてゆくのをわたしはおぼえるのであった。

それにしても、この国を旅行していてしばしば奇異の念に打たれるのは、かれらインド人が日常の場で示すおどろくべき好い加減さと、宗教の境域で示すおそるべき熱狂との対比である。あたかもそのことは、かれらの人格のほとんどが宗教の境域に没入しており、世俗とのつきあいなどはその残余にすぎないかのごとくである。この国の住人は決して怠惰にすぎぬわけではあるまい。むしろ、本来的な意味において、骨の髄まで宗教的な民族であるに相違ないのだ。

思想は多かれ少なかれ、その持主の内奥を覗かせてくれるが、インド思想の特質は、日常の悲惨も矛盾も葛藤も、すべてを一度宗教的諸観念に転移させたうえで、新たにその境域から解決を模索するという迂路を示す。ニーチエは「神の死」を叫んで、われわれの時代へのニヒリズムの到来を告知した。けれども、インドではなお、神々が生きている。神々が遍在して、ひとびとと共棲しているのだ。