一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

英艦隊来航までの経緯 それはグラバーから始まった

五月二十一日には横横浜を立って、廿四日には下関で高杉晋作、伊藤色俊輔に逢った後、パークスは長崎に行くのです。五月二十七日に長崎へ着き、六月三日鹿児島藩家老新納刑部(ロンドン帰りの人)に合い、その足で鹿児島に行って、それから宇和島に来るんですよ。

パークスが、つまりイギリスが、この航海を考えたのは、この時のイギリスの外相は有名なクラレンドン伯爵で、彼の政党はホイッグ党―馬泥棒という意味だそうですが―保守党(トーリーーこれは山賊という意味らしい)でなくて自由党ですから、自由党は対仏穏健主義だったのですから、パークスにも「幕府と戦争するな、日本の政治に介入するな」というのが基本原則だったようです。

だからパークスの前任者のオールコックは、先ほどの下関を五か国で砲撃した責任をとらされて罷免されます。その後でパークスが来ていますけど、なんのその、強引に砲艦外交をやってしまう。英語ではガン・ボート・ディプロマシーですね。ちなみに、宇和島に来たサーペント号はまさに英戦艦分類で砲艦=ガンボートでした。

具体的に、イギリス艦隊が鹿児島に行って宇和島に来たその経緯はどうだったのかというと、慶応元年(一八六五)閏五月にパークスは日本に着任している。十月に、日本の情勢を見て

「よし、これは幕府と交渉やっているだけではいかん。朝廷と直接交渉をして、それから各藩を個別に訪問して味方にし、開国させんといかん」

という、大変現実的な考えを持ったのですね。

慶応元年十月八日 長﨑代理領事ガウアーが、パークスの来訪を受けそうなのは九州諸大名、加賀、越前、宇和島、土佐と同年十二月十一日

岩下佐治右衛門

薩藩家老  岩下佐治右衛門

それだから日本に来てすぐ、長崎の代理領事のガウアーに

「一体、藩主と仲良くしたいんだが、どの辺の連中が俺を受け入れてくれるだろうか」と相談したところガウアーは、

「それは、まず北から言えば加賀、次は九州の大名、それから四国なら宇和島と土佐じゃ」と言って情勢を教えてやるのです。

慶応元年の十一月頃には薩摩藩がパークスを呼ぼうという計画を立てている。だって五代才助の提案を入れて、薩摩藩が留学生を送ったのは慶応元年(一八六五)ですからね。一言追加しますと、その前年の元治元年末に五代は宇和島で宗城公に拝謁し、松根圖書に薩藩のロンドン留学生のことを洩らしています。

慶応二年(一八六六)には留学生は帰ってきます。だからイギリスと薩摩とはこの時点では非常に親しくなっているのです。

グラバー邸で桂右衛門・岩下佐治右衛門、ガウアーの三者会談 グラバーは薩の大債権者 佐治右衛門横濱へ行き パークスと二度密会 パークスに報告

トーマス・グラバー

政商 トーマス・グラバー

パークス招待を具体的にやろうということで、慶応元年の十二月に家老の桂右衛門と岩下佐次右衛門がグラバー邸に集まって、ガウアーと会い、具体的なスケジュールを練るわけです。

この会合をプッシュした者は薩摩の誰か。多分薩摩の五代と思います。

なぜかと言うと、五代は薩摩とグラバーの間に立って武器を薩摩にどんどん買わすのです。だからグラバーは薩摩に大債権を持っているわけです。

というわけで薩摩が幕府に負けないように何とかしないとグラバー自身が破産しますからね。そのグラバーが動いて、会談をグラバー邸でやって、それから直ちに岩下佐次右衛門が横浜にへ行って、これはもう秘密の秘密ですからね。幕府の隠密の眼もありますから。

佐治右衛門は横濱で結局パークスに会えなかったとも考えられていますけれど、実は会っているのです、すくなくとも一回くらいは。このことは『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄 三』という朝日新聞社から出ている荻原延寿の本に、「実は二、三度会っている」と出ています」。

慶応二年三月十日 グラバー藩主の招待状をパークスへ手交。しかし、結局パークス一行を引きうけたのは薩藩と宇和島藩だけだった

五代才助

薩藩士 グラバーの盟友  五代才助

それで慶応二年(一八六六)の三月十日にグラバーが薩摩藩主からの招待状を渡すわけです。しかし、ガワーの予測ははずれて、加賀藩はじめ誰も手を上げない結局、最終的に引き受けたのは薩藩と宇和島藩だけだったわけですね。薩摩と宇和島の間を取り持ったのは、多分今の時点では五代才助だと考えています。新しい史料が出てくる可能性は低いと思います。

元治元年(一八六四)十二月に宇和島に来て、宗城公と松根図書に初めて会った」と書いています。それくらいなんですよ、タイムスパンが―。

元治元年の終りに五代が宇和島に来て、五代としては宇和島を引きずり込もうとする腹ですよ。他に色々手紙類を見てますが、これらの外に資料は残っていませんね。多分、ここにある五代のその手紙がそもそもの初めではないかと思います。私は以前は、江戸で薩藩と宇藩とのやりとりがあったのではと想像していましたが、史料は無いですね。もっとも、秘密交渉ですから藩庁の正式文書には絶対出てこないわけです。