一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

座法(四)

およそ、自分のこころほどわれわれにとって、手に負えぬものはあるまい。もとより、心理学などという学問を学んだぐらいで、理解のとどく相手ではないのだ。わたしのものでありながら、決してわたしの思いどおりにならない。

さりとて、語源をコロコロとする俗説が正しく思われるほど、こころは常にコロコロとしてとどまるところを知らないのだ。いかんせん、そんなこころに身を託して生きてゆかねばならぬとは、われらの人生もおぼつかない。

となれば、この散乱してやまぬこころをなんとか落ち着かせる工夫こそ、われらひとりひとりに課せられた滅法重い課題だろう。どうすればよろしいか。どうすればよいのだろう。

道がひと筋みえてくる。要するに、こころを鋳(い)型にはめこんで、セメントで固めてしまうがよろしいのだ。

と言えば、いささか乱暴な言いまわしだが、言わんとするこころは要するに、からだを小さく折りたたんでしまうがよいということだ。

座法4-2それというのも、こころとからだが一体ならば、からだを小さく折りたためばそれだけ、こころの妄動も小さく折りたたまれる道理ではないか。

くり返すまでもなく、座るとは自分のからだを出来るだけ小さく折りたたんでしまう所作をいう。となれば、一見なにげない所作にみえて、その実、座る作法にはからだを回路としてこころを落ち着かせるための、一種のこころの操作術が仮託されているわけだ。心身一如(にょ)の身体観が教えてくれるチエである。

しからば、こころに落ち着きを得たいひとはすべからく、ダルマさんとなって座ることを心掛けられるがよろしいのだ。ガマの油の効能書のように、座ってみればそれだけで、ピタリこころの波風がおさまってくれるとは申し上げにくいが、それでもわたしのささやかな体験に照らしてみても、いささかの効果が期待出来ることだけは確かである。

だからして、世界を見渡してみるがよい。座る文化をもつことの出来た民族のなんと限られていることか。いずれにせよ、座る作法はこころとからだの一体感にめざめ、しかも禅定(じょう)を希求する民族だけがもつことの出来た、そんな奇特なこころの文化にほかなるまい。インドあたりにその源流がありとみなされるゆえんである。

しかも、そのインドに生まれた仏教が万里の道のりをものともせず、ついにわが国に伝来したいきさつについてはもはや語るまでもないだろう。史書はわが国への仏教伝来を、六世紀も半ばのことと記録する。およそ、千年の歳月を費した長旅だったというわけだ。

ところで、その仏教のことである。これが思いのほか文化的な色彩の濃い宗教ゆえに、影響のほどもおのずから、その裾野がこよなく広いことになる。だから、仏教がわが国に受け入れられるや、やがてそのルートを通して、いかに多くの文物が流入するにいたったか。

たとえば、多くの言葉がはこばれた。音楽や美術、そして芸能がはこばれた。はたまた医術や薬品、そして食物などがはこばれた。言ってみれば座の文化もまた、そんな仏教回路を通路としてわが日本まではこばれた、かのインド文化の一断片にほかならないのだ。

たとえば、仏教に触発される以前のわれらの祖先たちが座る文化をもたなかったありさまを、雄弁に語るものがある。古墳のなかから発掘されるヒト形の、あの形象ハニワがそれである。下半身がおぼつかないことこの上ない。

形象ハニワとは申すまでもなく、古墳に副葬されている素焼きの土製の造形だ。仏教が伝来する以前の古墳時代の生活風俗を知るうえで、こよなき資料とみなされる。