一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

座法(三)

 

こころとからだの関係は本来、どんなしくみにおいて成り立っているのだろうか。最近の医学や哲学が出合っている新たな課題のひとつである。

要するに、これまで両者の関係をとりしきって来た思考の枠組が、近来ますますこわれ始めたのだ。最近の心身論の高まりも、どうやらそんないきさつと深いかかわりがあるらしい。

いきなり話がむつかしくなって恐縮だが、この心身関係の問題は座法を考える場合にもいろいろと、示唆(さ)を与えてくれるのだ。しばらくおつき合いを願いたい。

さて、こころとからだの関係をどのように理解したらよいのだろう。両者は本来、別々のものなのか。それとも一体のものなのか。いま仮に、そんな問題のたてかたをしてみよう。とたんに、問題の所在がはっきりみえてくるから好都合だ。

それというのも、こころとからだを分離する方向を究極まで推し進めた、それがほかならぬ近代医学や哲学の経て来た道であったのだ。

申すまでもなく、こころとからだを分離して、両者のあいだの相互作用を断ち切れば断ち切るほど、それだけからだは自動機械に擬(ぎ)せられよう。となれば、自動機械になぞらえてからだを理解する視野こそは、近代思想が切り開いた新たな地平であったのだ。人間機械論を語り始めたあのデカルトが、近代哲学の父とたたえられるゆえんである。

言われてみればたしかに、われわれのからだもその働きに即していえば、実際、機械にたとえられなくもないのだ。たとえば、心臓を自動ポンプと考えてなぜわるい。目玉だって言ってみれば、精妙なレンズ玉にほかなるまい。だから性能が落ちれば、メガネやコンタクトレンズに助けをお願い出来るのだ。

リクツはそれと同じことで、からだを自動機械になぞらえてみるとしよう。いたんだ部品をとりかえれば、われわれのからだはいつまでも働きつづける道理ではないか。

デカルトだから、あのデカルト先生は、自信たっぷりおっしゃった。われわれ人間は百五十才まで生きることに責任をもたねばならないのだーと。

からだが病んだら、病んだ部分をとりかえればよいのだ。もちろん、そんな発想がこの自信を支えていることはいうまでもない。となれば、近頃話題の臓器移植や脳死判定なども、言ってみれば相変わらず、こんな発想の延長線上をウロウロしているにすぎないではないか。

それにつけても、人間機械論者のあのデカルトがわずか五十四才で、しかも風邪をひいたのが原因でこの世におさらばを告げたとは…。その哲学とは裏腹に、われわれのからだが自動機械でないさまを、みずからのからだを張ってみせてくれたというべきか。

そんなこんなで近来とみに、こころとからだの関係をもう一度、その原点に立って見直そうとする気運が盛り上がって来たのはよろこばしい。原点とはもちろん、こころとからだの関係は本来、別々のものなのか、それとも一体のものなのか、というあの問いに立ち返ることにほかならない。

かくして、近代医学や哲学は長い彷徨(ほうこう)のはてに、いまやようやく、心身一如(にょ)の見方に立った身体観に立ち返り始めたというわけだ。

とたんに、みえて来たものがひとつある。東洋思想、なかでも仏教思想などは一貫してその最初から、心身一如の身体観にめざめていたという事実である。

してみれば、座法の問題などもさしづめ、そんな身体観が生み落とした成果のひとつにほかなるまい。いずれにしろ、座がもつ意味を語るには、心身一如の身体観に立ち返ることが肝要だ。座の文化の源流がインドあたりにありとみなされるゆえんである。