一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

ペリーとハリスが鎖国日本の扉を開け、パークスが扉の中に入った


日本の開国はペリーとパークスがなしとげた

ペリー

ペリー

今、ここで考えてみたいのは、宇和島に英国艦隊がやって来たその歴史的意義というものをちょっと考えておく必要があると思うのです。

 我々は歴史の教科書などでは、日本が開国したのは、

「ペリー提督とそれから後でやって来たタウンゼント・ハリス弁理公使とで日本は開国して、安政五年(一八五八)に安政の五か國条約が結ばれた」

とあるのですが、実は現実を見てみると決してそうじゃなくて、安政七年三月(万延元年)に井伊大老が暗殺され、文久二年一月に閣老安藤信正が襲撃されてからは、全然もうペリーとハリスの努力というものは実現できない状態まで、德川幕府は追い詰められていたのですね、尊王攘夷運動のテロ活動で。

なにさま孝明天皇が、三条実美やテロリストみたいな薩長・水戸の志士さんと一緒に「攘夷だ、攘夷だ」とやるものですから、幕府もどうしようもなくなって―幕府もその時は、将軍は家茂さんですよ。徳川慶喜さんと将軍職を争った家茂でしたが、文久年間に入ってからは、文久三年五月十日を攘夷の日と決めてしまった。そういうことで幕府としては、「もう横浜も閉鎖します」というような使節をロンドンとパリとに二度も送っている始末なんですね。

ハリー・パークスは慶応元年から明治十六年まで英国公使として、
条約勅許江戸協約日本の四大近代化
を推進した

いよいよ「もう安政条約は無理だぞ」という時に、慶応元年(一八六五)閏五月にパークスが日本に乗り込んで来て、砲艦外交をやって、それをひっくり返した。ですから日本の開国というのは子細に見てみますと、ペリーとハリスとパークスによってですね、初めて成功した。

1モーレツ外交官

モーレツ外交官ハリー・パークス

パークスが強引に入ってきたのです。何分パークスというのはご存知のように猛烈な男で…。この人は当時のイギリスの英雄だったのですね。

アロー号事件というのでパークスは強硬な外交を押し進めて、戦争には勝つのです。勝つけど北京で捕虜になります。捕虜になったイギリス人の半分は殺されるのですね。パークスも牢屋に入れられ、死刑を宣告されて、鎖に繋がれておったのですが、何とか生き延びて出てきます。それで英国では英雄として、若くして勲章まで貰っています。

だから今でもイギリスの博物館にはこの人が当時着ていた公式の服だとかサーベルとかが保管されてあるようです。

この人が結局は孝明天皇から条約勅許をもぎ取って、幕府からは〈江戸協約〉というものをもぎ取る。何をもってもぎ取ったかというのは、プリンセス・ロイアルという恰好だけはデカイけれど時代遅れの軍艦を摂海まで入れてきた。摂海まで外国の軍艦が入ったのは、それまではプチャーチンが嘉永六年(一八五三)に大坂湾まで入れたのが初めてです。入れたと言っても、只の一隻だったし、それ以後はなかったと思います。

「日本におけるパークスの外交の歴史は、結局のところ、日本そのものの歴史にほかならない」
F・V・ディキンズ著パークス伝

ところが、強引にパークスが英・仏・蘭の九隻の軍艦で摂海にやってきて、丁度その時には将軍家茂は長州征伐で五万の兵隊を連れて大坂に上がっているわけです。つまり江戸幕府は空(カラ)で大坂に幕府の中枢があって、ちょっと行った京に孝明天皇という政治イデオロギーの中心があったと…。

その上方に「パークスが強引に乗り込んできて、それから明治維新になったら日本の四つの近代化を推進した」と『パークス伝』の中にあります。

『パークス伝』はフレデリック・ヴィクトール・ディキンズという人が書いたもので、東洋文庫で読むことができます。この人が、

医師

医師・弁護士・日本学者 ディキンズ

「日本におけるパークスの外交の歴史は、結局のところ日本そのものの歴史に他ならない」

と書いています。私は実際にそうだったと考えています。

「慶応の終りから明治初年の日本の歴史をつくったのは実にパークスであった」

とも書いているわけですね。

ディキンズは医者にして弁護士にして日本学者、いろんな日本の本を訳出しています。ロンドン大学の事務局長をして、南方熊楠がロンドンで勉強したり、呑んだくれとった時に、この人が色々面倒を見ていたようです。日本に大変詳しい人物で、ジャパノロジストのはしりです。