一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

英国軍艦宇和島来航の歴史的意義

(講演記録)平成二十六年十月十一日・宇和島市生涯学習センター

 平成二十八年はパークス来航百五十周年である

英国軍艦の宇和島来航は、大変な珍事

みなさん今日は。台風が来るというので心配していましたが、何とか天気に恵まれました。さっそく話に入らせていただきます。

伊予の宇和島 エゲレス人がやってきた

大宅壮一が四国の終着駅と言ったこの伊予の宇和島で、幕末にイギリス人がやって来た。これはもう大変な珍事でありまして、それの歴史的な意味と言いますか、そういったものを少し考えてみたいと思います。丁度あと一、二年したら百五十周年ということです。

伊達宗城の活躍はパークスとの友情があってこそ

uwa1 実は百年前、正確に言うと九十六年前に村松恒一郎さん、宇和島の人はよくご存知だと思いますが、末広鉄腸の一番弟子で、ジャーナリスト、政治家で、宇和島史家―と言いますのは伊達家に『鶴鳴余韻』という本がありますが、この本の下巻が、この人の責任編集ということで名前が出ております。

村松恒一郎が大正五年(一九一六)、丁度百年前に「宇和島にパークスが来た」ということを、東京の史談会でしゃべっており、その記録が残っております。どのような話をしたのかというのは、今から私が申し上げることを簡潔に述べているわけですが、その冒頭に「実は事々しく諸君のお耳に達するほどでもないのであります」と、謙遜の言葉を述べております。だが、これは必ずしも彼の本心じゃなくて、やはり宗城公が新政府の外交面で活躍できたのはパークスとの友情があったからだこそ、と思っていたのです。uwa2最後にもう一回村松の言葉を聞くことにします。

 

英国艦隊來宇の歴史的意義

また、三十年前に、丁度百二十年記念ですけど、三間町迫目の庄屋の子孫・岡本健氏―東京在住の事業家、宇和島東高校で私より三年程下だということですが―が、ブライアン・ヒッチという英国公使を連れて帰られ、菊池市長のところに百二十年になりましたと、一葉の写真持って来られた。

uwa4 この写真の下には、一千八百六十六年つまり慶応二年の下関だと書いてありますが実は間違いで、これは二年前の元治元年(一八六四)に五ヶ国が下関を砲撃したときの艦船の勢揃いで、先頭の軍艦を拡大してみますと、プリンセス・ロイアルそっくりなのです。実は同じ型の船なのです。これはコンケラーという名前の戦列艦です。だから「世界一の軍艦を連れて来たぞ」というアレクサンダー・フォン・シーボルト(アレックス)が言う宣伝はちょっと気を引くための過大表現とも見えます。それはまた後で申し上げますが―。

uwa3 今、ここで考えてみたいのは、宇和島に英国艦隊がやって来たその歴史的意義というものをちょっと考えておく必要があると思うのです。昭和六十年に、岡本健氏のご仲介で、菊池市長を表敬訪問された英国ブライアン・ヒッチ領事が、慶応二年頃の下関海峡での連合艦隊として贈呈された写真。しかし、この写真は元治元年の下関戦争の時に姫島南岸に集結した英・仏・蘭・米の艦隊と考えられる