一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

玄奘(三)

金が万能の世の中とはいえ、それでも、パーリ語の手書きの経典といえば、すこしは珍重に値いしよう。第一、店先で安易に手に入るようなシロモノではない。数年前、スリランカを旅行した折、偶然、わが手のうちにころがりこんで来たのだ。爾(じ)来、経文(もん)の判読はチンプンカンプンながら、なにやら有難気なものとして、わが家の仏壇の片隅に大切に安置させてもらっている。

玄装3 ちなみに、パーリ語とは、スリランカから東南アジアあたりに広がる、南方仏教の聖典用語を言うのだ。「インド=ヨーロッパ語族に属し、中期インド=アリアン語のなかの初期の俗語のひとつ」(仏教大辞典)などと辞書は解説してくれる。

なにしろ、経文が貝多羅葉(ばいたらよう)、またの名を貝葉という、シュロ科の植物の葉に書写されているのだ。多羅樹と呼ばれる、樹高二十五メートルにも及ぶ大樹の葉である。

ちなみに、その若木の若葉は柔らかく強靭(じん)で、クリーム色の肌をしているそうだ。その葉を釜ゆでして、陰干しにしてよく乾かす。そのあと、葉の両面をよくマッサージしてツヤ出しをしてやれば、貝葉紙の出来上がりである。紙が普及する以前、布帛や獣皮と並んで、あまねくインド社会でもちいられた筆記用材なのだ。

なにしろ、材質が木の葉である。紙のようには墨汁を吸いとってくれない。ゆえに、文字も鉄筆でまず線刻し、そのみぞに墨を流しこむ仕方で書写されるのだ。紙が普及する以前の、経典の原型がみられて貴重である。

しかも、古様式を守るためか、スリランカではいまもなお、たとえば、わが家に納まったお経の例のごとく、経文が相変わらず貝葉に書写されているようなのだ。この頑固さが得がたい。仏教文化のために、この頑固さに拍手をおくらずばなるまい。

それはさておき、悲しむべき森林破壊、とわたしなどには思われてならないのだが、世の中にはなお、紙の消費量が文化のバロメーター、などと語ってはばからない楽天家も多いようだ。

紙の消費量と文化のレベルは本来、なんの関係もあるまい。さもなければ、あの蠱惑(こわく)的なインドなど、たちまち低レベルの文化国家に成りさがってしまう。周知のように、インドでは現在もなお、多くの貧民が紙とは無縁な生活を送っているのだ。

さて、現在もなお、そんな状態が続いているとすれば、まして玄奘三蔵が渡印した頃のインド社会など、紙はほんの一部の特権階級の専有物であったに相違ない。しからば、経文といえども、それが紙に書写される度合いの、なんと幸甚に属していたことであろうか。

さて、わたしはいま、玄奘三蔵がはるばる流砂の沙漠をこえてインドから持ち帰った経典が、一体どんな材質に書写されていたかを思い描こうとしているのだ。紙か、それとも貝葉に代表される、紙以外の材料か。

記録はなにも語ってくれない。歴史家もまた、こんなタワゴトめいた興味に応対してくれるほど、どうやらヒマではないらしい。

もし、紙以外の材質であったとせんか、玄奘の訳経の事業は同時に、経文を紙という新素材に移植する作業でもあったことになるのだ。結果として、経典が一挙に、持ちはこびに便利で、丈夫で長持ちするものになったことはいうまでもない。

しかも、そのことが経典の普及にいかに役立ったことであろうか。ちなみに、わが国に初めて招来された頃の仏典もまた、おおむね、紙という素材に書写されていたのである。われらの祖先がいまだ、和紙の製法も知らぬ段階のことである。中国文明の威力というほかあるまい。

けだし、紙の製法は後漢のひと、蔡倫の発明になるという。二世紀始めのことである。なんといっても、製紙は中国が本場なのだ。