一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

B.ラッセルの『幸福論』

世の中に幸福を論じた書物は多い。その中には、特定の信条や宗教を信じることによってのみ、あるいは、精神修養を積み、特定の境地に達することによってのみ幸福が得られるといったものも少なくない。これに対して、ラッセルの『幸福論』の特徴は、比較的易しい文章で書かれている上に、その内容が、ある意味で常識的であり、中庸(ちゅうよう)を得ていることである。

ラッセル幸福論ラッセルによると、たいていの人にとって幸福が得られる条件は、「衣食住、健康、愛情、仕事の上での成功、仲間からの尊敬であり、中には親になることが大切な人もいる。これらの条件が満たされないで、幸福でいられる人は例外的である。」ラッセルは、これらの条件が簡単に満たされるとは考えていない。ただ、自分が不幸であると考えている人は、その原因は複雑であり、何か高度に知的な要因によると考えがちであるが、人間が本来持っている基本的な欲求が満たされないときに、人は不幸であると感じるのであり、その原因を素直に見つめなおすことが、幸福になるための必須条件である、と述べている。

ラッセルが「幸福が得られる条件」で述べたことは、努力なしに得られるものではない。現代社会は、競争社会であり、努力なくして、衣食住、健康、愛情、仕事の上での成功は、得られない。また、努力しても、これらが得られるとは限らない。成功を金銭で測れば、成功者は、一握りの金持だけになる。健康について努力しても、いつ事故に会い、大病にかかるか分からない。いずれ死は、誰にもやってくる。幸福を得るためには、努力だけでなく、あきらめも大切である。このあきらめは、絶望とはまったく異なる。自分を客観的に見て、人生はすべてが順調にいくとは限らない、やりがいのある仕事、自分のできることを努力してやっていこうとする積極性をもつことを含んでいる。ラッセルは、共通の運命という絆(きずな)で人々が結ばれ、後世の人々と自分との一体感を感じることによって大きな喜びを見出すことができた、と述べている。

私自身についていうと、70歳を過ぎてから、死を身近なものに感じるようになった。それは、一つには、私の親しい友人、尊敬する人たちが、亡くなるのを目にしたからである。もう一つは、私の子供達や孫が成長していく様子を観察したからである。人は、こうして生まれ、成長し、死んでいくということを実感することできた。それとともに、不思議と自分の死への恐怖心が安らぎ、生きていることの喜びが増したように思える。ラッセルのいう幸福の意味が、少しは、実感できたように感じる。