一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

座法(五)

座は行儀をうるさくいう。そんな座る作法をいま仮に、座の文化と呼んでみよう。親ガメの背にのる子ガメのように、仏教文化の背中にのって、わが日本まで渡来した、インド文化のひとかけらではあるまいか。前回はそんなよしなしごとをいささか書きつづってみたつもりだ。

だから、座の文化は他のインド文化同様、一見やさしそうでいて、その実わりかし奥深い。なにしろ、自分のからだを出来るだけ、小さく折りたたむ所作なのだ。思いのほかの窮屈を自分のからだに強いるのだ。だから、それなりの修練が座る所作には欠かせまい。石の上にも三年という、コトワザだってあるほどだ。

「座法⑤」近頃、どこの職場でも、新人類をしごくため、そして中年クラスを窓際族にさせぬため、社員研修や職員研修が仲々お盛んなことと聞く。なかには、座禅をメニューにとり入れた研修会もあるほどだ。意図が分からぬわけではないが、日頃、座る作法に慣れぬ身をいきなり座禅でしごいてみても、さて、効果のほどはどうだろう。

かく申すわたし自身にしてからが、ようやく最近になって、一時間あまりの正座がすこしは楽になったかと思う程度のことなのだ。座る作法が殊のほか訓練の要るありさまを、日々、思い知らされているわけだ。

それにつけても、この正座のことである。行儀よくお座りなさいと言われれば、まずわが日本の社会では、正座を組むのが常道だ。

思えば、奇妙な座りかたとはいえまいか。なにしろ、折り曲げた自分の脚に自分の全体重を乗せるのだから、脚がしびれて当たり前である。こころ落ち着くどころの話ではない。

もちろん、世界を見渡して、こんなおろかな座りかたに身を託している民族は、われらを措いてほかにあるまい。座の文化をあれほどまでに洗練させた、インド世界のことである。もちろん、こんな不合理な座りかたをわが国に伝えるはずもない。

たとえば、蓮華座に座すあのミホトケをごらんになってみるがよい。ミホトケたちは一様に、結跏趺座(けっかふざ)と称される座相を組んでいらっしゃる。これこそ、あの釈尊が定(じょう)に入り、面壁九年のダルマさんが壁にむかって座られた、座りかたでもあったのだ。インド舞踊の基本形もまた、このかたちから始まるのだと、ある博識が教えてくれたことがある。こんな知識にひっぱたかれると、眼が開かれてアリガタイ。

ためしに、座相を図形にたとえて論じてみよう。結跏趺座は三角形、正座はもちろんタテ長の、長方形にみえてくる。どちらが安定しているか、答えは言わずもがなのことだろう。

思えば、われらのからだの構造は一見単純そうでいて、その実、仲々複雑な骨格をもっているわけだ。だから、座法もきわめれば、四十八手が決まり手の相撲どころの話ではない。八十四通りの座りかたがわれらのからだには成り立つのだと、これはまた、近頃はやりのヨーガ教室の先生に教えてもらった知識である。

ところで、座る行為には、からだのかたちを決めることで、こころの散乱を制するという、そんなこころの操作術が仮託されているのではあるまいか。前回語ったテーマである。

となれば、あの結跏趺座は期せずして、三角形というもっとも安定した図形を、からだが描いているわけだ。からだをおむすび型に折りたたむ結跏趺座が殊のほか、あらゆる座相のなかでも、王座とみなされるゆえんである。あのミホトケたちが一様に、結跏趺座を結ばれるゆえんと理解いたしたい。

それにつけても、あの正座のことが気にかかる。われらの文化伝統はなぜ、あんな奇妙な座りかたを発達させてしまったのだろう。おかげで、座る作法がこころの落ち着きに結びつくどころか、苦痛を強いることこの上ない。

座法にこだわりついでだ。次回はそんないきさつをいささか解き明かしてみることにいたそう。