一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

B.ラッセルとその死生観

B.ラッセル(1872~1970年)は、無神論者として知られている。「なぜ私はキリスト教徒ではないか」(1927年)において、キリスト教徒であるためには、キリストが神であることと霊魂の不滅を信じなければならないが、ラッセルは、その2つとも論証できないと述べている。さらに、宗教の基礎は、恐れ―神秘的なものへの恐れ、敗北への恐れ、死への恐れであるとも述べている。欧米におけるキリスト教の影響力は大きい。1938~40年にアメリカの大学に哲学教授として招かれたが、その反キリスト教的言動が問題視されて大学を追われた。『自叙伝』によると、典型的な「魔女狩り」が行われ、一切の講演、出版を断られ、アメリカで生計を立てる道を閉ざされた、と述べている。

ラッセル死生観晩年に、死後の世界についてたずねられたラッセルは、「死後の世界は存在しない」と明言している。ラッセルは、死への恐怖が、現実から目をそらせ、科学の進歩を遅らせ、残虐行為を助長していると考えた。死後の世界について語らなかった偉人として、孔子がいる。孔子は、弟子の子路が、死についてたずねたのに対して、まだ生きている人間のことが分からないのに、どうして死後のことが分かりえるか、と答えている。生きている人間、人間社会の現実と将来を考えることが大切である、というのが孔子の考えであったと思われる。

ラッセルの信仰・信条は、次のようなものであったと思われる。人は、罪を背負い、神によってしか救済されないような存在ではない。人類は、何百万年もの時を経て、やっと現在の社会にまでたどり着いた。人間は、共通の運命と愛情という絆(きずな)で結ばれ、個人の尊厳を重視し、科学の進歩を促進することによって、輝かしい未来を築き上げることができる。そうであるからこそ、残虐行為や人類を破滅に導く核兵器の開発競争に、孤立を恐れず、身をもって反対した。

ラッセル自身は無神論者であったが、個人が充実した人生を送ることにおいて、宗教の果たす役割を否定してはいない。晩年に、「将来の世代に伝えたいこと」をたずねられたラッセルは、2つのことを述べている。まず、知的な面では、事実および事実によって支持されることのみを信じなさい、道徳面では、愛は良いことであり、憎しみは愚かなこである、ますます相互依存度が高まる人間社会では、寛容と忍耐が大切である、と述べている。

現在、宗教や体制の違いの名を借りて、戦争や残虐行為が繰り返されている。ラッセルが問い続けた「人類の未来に何が必要か」が、改めて問われているように思われる。