一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

座法(六)

わが善友に、水を飲んでもふとるという肥満体質をもった、和尚がひとりいらっしゃる。いかんせん、和尚と申す生業(なりわい)には、法要の時はもちろんのこと、なにかと正座がつきまとう。

なにごとも修行のうちとはいうものの、なにしろ、体重百キロを越す巨体を、自分のたたんだ脚に乗せるのだ。お葬式の最中に足が吊ってしまって、礼盤(らいばん)(本尊のまえにある壇のこと)から転げ落ちた話など、正座にまつわる悲喜劇を語らせればキリがない。

と言った次第で今回は、なにゆえわれらの文化伝統は正座などという、こんな奇妙な座りかたを発達させてしまったか、そんなよしなしごとをいささか語ってみたいのだ。

「座法⑥」どうやら正座は、われわれの民族衣装であるキモノと深い関係をもつらしい。近来、和服にこだわりつづけていることがキッカケで、ふと気付かされたことである。

しからば、思いつくままに、キモノがもつと思われる特色をしばらく語ってみることにいたそうか。

われわれのからだはそれなりに、かなり複雑な線をもち、立体構造をもっている。ところで、キモノは最初から、そんなからだの構造をまったく無視したつくりなのだ。洋服などとは異なって、キモノはからだの寸法に合わせることなど顧慮せずに、縫製されているわけだ。

だから、キモノは言ってみれば、風呂敷みたいな衣装なのだと思ってみればよろしいか。あたかも風呂敷がなんでも包んでしまうように、キモノもまた、われわれのどんな体型をも自在に包んでしまうのだ。

なにしろ、風呂敷型のつくりだから、自在といえばこれほどに自在に出来た衣装もない。だから、キモノ一枚を女系家族全員で共有することだって出来るのだ。

とりもなおさずそのことは、キモノがわれわれ個々のからだの寸法に一向に合ってくれないことを意味するのだ。

キモノのほうで一向に、われらのからだの寸法に合ってくれないとするならば、われらのほうで仕方なく、キモノにからだを合せるしかあるまい。キモノの着付けが殊のほかむつかしくなるゆえんである。着付け教室などという商売が結構なりたつはずなのだ。

たとえば、キモノをほどいてみよう。とたんに、キモノの正体がみえてくるからオモシロイ。長方形に裁断された布片に、キモノはみごとにバラされる。ということはキモノとは、長方形の布と布を縫い合わせただけで出来ている、そんな衣装ということだ。

言ってみれば、キモノを着るという所作は、そんな長方形さながらの衣装にからだを合せることにほかなるまい。だから、キモノは着こなしがむつかしい。起居振舞がわるければ、すぐにキモノは着くずれる。

してみれば、正座とは、キモノがもつそんなつくりにからだを合せるために、しようことなしに編み出された座りかたではあるまいか。

ちなみに、長方形の布切れが縫い合わされて出来ている、それがキモノのつくりならば、座法も当然それに合わせて、長方形に座ることが要求される道理である。スソがはだけてしまってはキモノはサマにならぬのだ。してみれば、長方形の座相をめざす座りかた、それが正座にほかなるまい。

だから、正座の誕生は室町時代にさかのぼろう。下剋(こく)上の世相が衣服の上まで及んだか。もともとは下着であった小袖がこの期を境にして、上着になりかわってしまったのだ。いまは和服と呼ばれている、小むづかしい衣装がそれである。

おかげで、われら日本人は室町時代以来連綿と、足のしびれに泣かされつづけているわけだ。