一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

座法(二)

どこでなにをするにしろ、こころ落ち着いて事に当たることほど大切なことはあるまい。こころが散乱していては、よい智恵なども沸くはずがない。出てくる智恵がもっぱら、ヤマイダレつきの「愚痴」ばかりでは、人生おぼつかないことこの上ない。

いきなりヘリクツを書いて恐縮だが、仏教の世界では、こころが落ち着いて散乱していない状態、これを名付けて「定(じょう)」という。「定」を別名、「三昧(まい)」ともいう。

しからば、なにによらず三昧こそが大切だ。念仏三昧、読書三昧、恋愛三昧、極道三昧…。それぞれに奥深い世界を開き示しているといわねばならない。

ところで、この三昧がむつかしい。「こころ、コロコロ」と俗にいう。こころはたえずコロコロと変転して、一瞬もとどまるところを知らないのだ。そもそも、こころの語源自体、このコロコロに由来するのではあるまいかという、もっともらしい説もある。

たとえば、鎌倉仏教の開祖のひとり、法然上人はそのむかし、次のごときことをおっしゃった。身にしみる言葉ゆえに、書き記しておこう。「凡夫ノ心ハ物ニシタガイテウツリヤスシ。タトへバ猿猴(えんこう)ノ枝ニツタフガゴトシ。マコトニ散乱シテ動ジヤスク、一心シズマリガタシ」。

といった次第で、われわれは自分のこころを鎮めるだけでも、かくのごとく苦労するのだ。となれば、まして他人のこころを落ち着かせることなど、これはもう至難のワザというほかあるまい。

たとえば、一瞬もじっとしておらぬワルガキがいま、厄介にもわたしのまわりをうろついているといたそうか。この厄病神を落ち着かせるために、わたしに出来ることはなにだろう。

言い聞かせてみても無駄である。こころここにあらざるものが聞く耳をもつはずがない。なぐりつけようか。なぐり返されるのがオチである。たったひとつだけ妙案がある。座らせてみることである。

先日も、とある駅のプラットフォームで、ある幼稚園の遠足に行き合ったと思ってほしい。園児たちが全員、フォームに広げたハンカチに座って、おとなしく電車の到着を待っているではないか。引率する先生たちのたくまざる智恵をみる思いがして、いたく感じ入った次第である。

試みに、かれら園児たちを立ったまま、電車を待たさせたらどうだろう。プラットフォームがたちまちにお遊戯の場になることは、火をみるよりも明らかだ。

読み聞かせかくして、われわれはいまや、座るという姿勢が解き明かす、ひとつの深い意味に突きあたるのだ。

けだし、座るとは自分のからだをもっとも小さなかたちに折りたたむ所作であることを前回は語った。結果として座のポーズは、われわれのとりうるさまざまな姿態のうちでも、もっとも活動の静止した姿勢となることを語ったつもりだ。座るという所作が、われらのこころの妄動を制するのにもっとも役立つゆえんがそこにある。

だからして、自分のこころの散乱を制して、落ち着きを求めるひとはすべからく、座ってみるがよろしいのだ。効果テキメンとは申しがたいが、それでも、効き目のあることだけは確かである。われわれの伝統社会が、座る行儀を殊更に、やかましくしつけたゆえんと理解いたしたい。

さて、胴長短足、ガニ股のわれらのスタイルのわるさが、あたかもタタミ式の生活に由来するかのごとく指弾され、ウサギ小屋にもジュウタンが敷かれ、イス・テーブル一式が備えつけられるようになったのは、つい近々のことである。

せっかくの座の文化も、カッコイイスタイルを願うこころには、ついに負けましたということか。