一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

座法(一)

教師という職業柄、日頃、若者たちとよくつき合う。時には、タタミの上に同座する機会などにも恵まれる。そんな時、いつも気になることがひとつある。かれらの座り方である。

男女を問わず正座など、まず十五分ともたない。初めから正座をあきらめているギャルもいる。雪ダルマが崩れるように、姿勢がどんどん崩れてゆく。足を投げ出す。壁に背もたれる。気楽な会合だと、くう、ねる、あそぶそのままに、寝そべる若者たちも多いのだ。

といった次第で、座るという作法はやさしいようで、その実、結構むつかしい。

近来、われわれの周囲から急速に、座の文化が失われてゆく思いがしてならないのだ。

もちろん、ここにいう座るとは、脚を組んで地面にお尻を据えつけたポーズを意味しているわけだ。いま試みに、自分の体重はともかくとして、自分のからだの容積をミニマム(極小)にするよう、工夫をこらしてみるがよい。われわれはいく重にも自分のからだを折りたたむしかあるまい。それが座った姿勢なのだ。

いうまでもなく、立った姿勢は嵩(かさ)高い。寝ころんだ姿はさらに嵩高い。フテ寝した寝相など、殊更嵩高くみえるものである。

となれば、座るとは詰まるところ、自分のからだをもっとも小さなかたちに折りたたんで、固定する所作にほかならないのだ。

結果として、座のポーズがわれわれのとりうるさまざまな姿態のうちでも、もっとも活動の静止した姿勢となる道理である。言ってみれば、それはあたかもダルマさんのように、手も足も出ぬ姿勢である。それはまた、あらゆる誘惑に抗してテコでも動かぬ姿勢である。

そのことはとりもなおさず、座った姿勢が殊のほか、われらの自我の跳梁(ちょうりょう)を制するのに役立つことを語るのだ。座った姿勢は言ってみれば、ギッシリと妄動の詰まったわれらのからだを、手も足も出ぬ状態に追いこむ所作にほかなるまい。常に自己拡張を求めてやまない、われらの自我の妄動にもおのずから、ブレーキのかかるゆえんである。

だからして、世界を見渡してみるがよい。座る文化を育てることの出来た民族のなんと限られていることか。思うに、それは無我ということを知る民族にして初めて到着することの出来た、瞑想の文化にほかならないのだ。

たとえば、西洋文化をマナイタにのせてみよう。かれらの生活はイス式である。座の姿勢からみれば、それは半分立っている。立った姿勢からみれば、それは半分座りかけている。

いずれにしろ、腰掛けるという作法はイスという補助手段をもちいることによって、お尻が大地におりていない。腹と腰とが大地に座っていないのだ。

だからして、動作に移る場合には、ドッコイショと重いお尻をもちあげる手間が省かれるというものだ。そもそも腰掛けた姿勢からして座のポーズに比較すれば、はるかに自我が嵩高い。西洋文化が殊のほか、自己拡張型の活動的文化として、思量されるゆえんである。

周知のように、中国文化もまたどちらかといえば、その生活スタイルはイス型だ。

座禅3 それにつけても、思い当たることがひとつある。昨夏、中国旅行をした折に、黄河中流域の古都、蘭州に一泊したと思ってほしい。泊まった安ホテルのテレビをつけて驚いた。われらが加藤正男名人(当時)対中国側銭宇平九段の日中囲碁の対局が放映されているではないか。

時刻はまさに夜八時台の、ゴールデンタイムにあたるのだ。結果が銭宇平九段の圧勝に終わるや、テレビはそのどよめきを伝えて鳴りやまぬありさまだ。最近の中国の囲碁熱の高まりを彷彿(ほうふつ)することが出来て得がたかった。

それにつけても、中国式にイスに腰掛けて対局する、あの対局方式がどうだろう。時には日本式に、碁盤の前で脚を組んで座った姿勢で対局してもらってはどうだろう。成績がかなり違ったものになるに相違ない、などと書いてしまっては負け惜しみに過ぎようか。